【報告】哲学ドラマ特別イベント&ワークショップ「ふたつのつばさ」公開稽古+対話(1)
company maによる演劇作品「ふたつのつばさ」の公開稽古を見て対話する企画を、2016年12月1日(木)と4日(日)に連続で行なった。まず、1日(木)18:00-20:30に、プレ企画として、東京大学関係者を対象に「哲学ドラマ特別イベント「ふたつのつばさ」公開稽古+対話」を実施した。続けて、4日(日)13:00-17:00に、一般の子どもと大人を対象に「哲学ドラマワークショップ「ふたつのつばさ」公開稽古+哲学対話」を開催した。場所は、どちらも東京大学駒場Iキャンパス駒場コミュニケーション・プラザ北館3F身体運動実習室1であった。
「ふたつのつばさ」――少年ライフと飛ぶことを巡る物語
「ふたつのつばさ」は、アメリカの児童劇作家アン・ネグリによって書かれ、日本では、哲学ドラマ・コレクティブの一員である大谷賢治郎の翻訳・演出によって、company maにより上演されている作品である。今回の企画は、12月10日(土)、11日(日)に開催された、川崎市アートセンター・アルテリオ小劇場での同作品の公演を前に、ふだんなかなか見ることのできない稽古を公開し、演劇や演技、演出について(特別イベント)、また物語について(ワークショップ)、対話しようというものだった。
「ふたつのつばさ」は、鳥の少年ライフとその両親の物語である。ライフは、社会から切り離された森の奥の家で、「絶対に飛ぼうとしてはいけない」「いつでも肩掛けを身につけてること」「外の世界には絶対に出ていかない」といった、いくつもの厳格なルールのもとで育てられている。そこにある日、学校で飛ぶことを習い始めたばかりの双子の妹メタと兄トーアが迷い込んできて、彼の世界は一変する。初めて両親以外の存在に触れ、家族のルールに疑問を持ち、飛びたいと願い始めるのだ。実は、ライフの両親は2人とも飛べない「ドードー」だった。父親は事故で片翼を失い、母親も生まれつき片翼をもたず、学校でのいじめなどつらい経験を重ねていた。そしてそれゆえに、ライフを「守ろう」として、数々のルールを課していたのだ。だが、父親はライフの願いを受け、できたばかりの手製の翼をつけて、一緒に飛ぼうと試みる。果たして、2人はともに飛べるのか? そして、2つの翼を持つライフと、それぞれ1つずつの翼しか持たない両親は、これからどのように家族として生きていくのか?
以上のあらすじから読み取れるように、「ふたつのつばさ」は、鳥の家族の寓話を通して、親子の関係のありようや、何かが当たり前とされる社会のなかで、そうではないことの意味を問いかける作品である。身近なテーマであると同時に、さまざまな解釈が可能であり、その点で哲学対話の題材にふさわしい。また、大半が子ども同士、あるいは子どもと大人のあいだのユーモアを含んだテンポのよい会話で構成されているため、小さな子どもでもストーリーを追いやすく、楽しめる点も特徴である。何より生身の役者が目の前で演じてくれる魅力は大きい。実際、後述するように、ワークショップに参加した未就学児も食い入るように稽古を見つめていた。
哲学ドラマ特別イベント――「演劇をつくるとは?」を考える
1日(木)夜の特別イベントでは、2時間半という比較的短い時間のなかで、通し稽古と対話を行なった。俳優は一部、衣裳をつけていたが、ほとんどが稽古着姿で、観客席側には演出の大谷のほか、舞台監督や音響担当、制作などの公演スタッフが並んでいた。通し稽古の後には、通常の稽古と同じく演出家から俳優へのフィードバックがあり、参加者にとっては、演劇がつくられていく過程に直に立ち会う貴重な機会となった。
大谷は、「ダメ」を出すわけではないから、「ダメ出し」という言い方はあまり好きでないと言う。そして代わりに、英語圏の用法に倣って「ノート」という言葉を使う。実際、大谷は通し稽古を見ながら細かくノートを取り、それをもとに一つひとつ俳優たちにコメントを返していった。その内容は、間の取り方から、個々の台詞のトーンやニュアンス、身体の位置や動き、小道具の使い方まで、多岐に亘っていた。必ずしも一方的に強く指示を出すわけではなく、時に俳優たちとやりとりしながら、方向性を定めていくさまが印象に残った。
稽古と「ノート」にたっぷりと時間とかけたため、対話は20分ほどと短いものになった。参加者と俳優、スタッフが円になって座り、演劇をつくる者と見る者のあいだに率直な対話が生まれることを目指した。司会は筆者が担当したが、最初に「今日は物語ではなく、演劇や演技、演出に焦点を当てたい」と趣旨を説明したほかは、まったく何もしなかった。
「ノート」の直後ということもあり、話題の大半を占めたのは、演出家の役割と俳優との関係だった。大谷は、演出家としての自分の仕事はフレームをつくることで、中の絵を描くのは俳優の仕事だと語る。立ち位置などの細かい指示は出さず、俳優に自分で考えて演技をさせ、それに対してコメントを返すかたちで作品をかたちづくっていくと言うのだ(その一端を私たちは垣間見ることができた)。そのプロセスが俳優の立場からはどう経験されているかを聞くと、ある俳優は、稽古の際に毎回、演技を変えて「いい意味で闘っている」と言った。自分のやっていることが外側からどう見えているかの「客観性をもらっている」ということだった。別の俳優は、「ここをこう変えて」と指示されても、「もうちょっとやらせてください」と返事し、もう一度やってみて駄目と思ったら演出家の路線に変更するが、いけてると思ったら自分のやりたいことを貫くと話してくれた。「最終的には、おかしかったら変更するように言ってもらえる」という信頼関係が、そうしたことを可能にしているようだった。一方、学生の時は指示待ち症候群だったが、いまはそれを少しずつ壊せていると話す俳優もいた。自由度の高い演出との向き合い方は、俳優によって少しずつ異なるようだった。さらに、これらの話を受けて、自身の器楽アンサンブルでの経験をもとに、台本と楽譜、演出家と指揮者をアナロジーで考えながら、質問をする参加者もいた。
最後に残り時間が少なくなったところで、筆者から、「子どもを対象とした作品の場合、意識の持ち方やディレクションの仕方は変わるのか?」と質問した。それに対し、大谷は、自分のなかに子どもの目線を持とうと思っていると答えた。「基本、子どもを笑かしたいなって思ってるので、そんなことばっかり考えてる」とのことだった。俳優たちもそれぞれの経験や思いを語ってくれたが、もっと聞きたいというところで時間切れとなった。
まだ公演までいくらか日があり、俳優も演出家も試行錯誤しながら作品をつくっている段階で、稽古と「ノート」を見られたことが、この特別イベントの何よりの意義だった。参加者の一部は、4日のワークショップにも参加し、さらに公演も見たと聞いているが、そのあいだに作品が大きく変化したのを目の当たりにして驚いたのではないだろうか。完成形を見ただけではわからない、共同でものをつくっていくプロセスの一端に触れ、演劇についてだけでなくいろいろと考えるきっかけになったとしたら、企画者として嬉しく思う。
(続く)