【報告】第17回 UTCP「沖縄」研究会
2016年12月19日、東京大学駒場キャンパス101号館研修室において、第17回となるUTCP「沖縄」研究会が開かれた。
今回は本研究会では初の試みである書評会を行った。取り上げたのは、白永瑞先生の『共生への道と核心現場 実践課題としての東アジア』(法政大学出版会、2016年)である。当日は、本学総合文化研究科博士課程所属の崎濱紗奈さんと金景彩さんによる話題提供のあと、参加者全員で意見交換を行った。
白永瑞先生は、中国近現代史・東アジア現代史がご専門で、現在は韓国・延世大学校文科大学の史学科教授兼文科大学長の任に就いておられる。さらに韓国を代表する文芸学術誌『創作と批評』の編集主幹を務めるなど、大学の内外を問わず精力的に活動されている白先生の論考は、韓国国内のみならず、日本や中国、台湾でも広く紹介されてきたが、日本語による単著はこれが初めてである。
タイトルにある「核心現場」とは、朝鮮半島や台湾、沖縄など、特に帝国と植民地と冷戦の歴史が絡み合う東アジアにおいて空間的に大きく分裂した、矛盾と葛藤が凝縮された場のこと(p.4)である。本書は、この「核心現場」をキーワードに、白先生のこれまでの雑誌論文や国際会議等での講演記録の中から、日本語圏の読者に向け、白先生ご自身が選定されたもので構成されている。その内容は東アジア論から中国研究、社会人文学まで多岐にわたるが、本書の最後に収められた、本学の中島隆博先生による解説及び白先生との対談が、白先生の論考に初めて触れる読者にとって有用な手引きとなっている。
崎濱さんからは、本書の意義と疑問、そして崎濱さんのご専門にひきつけるかたちで近現代沖縄思想との関連から、という三つの観点からコメントがなされた。
本書の意義としては、次の三点が挙げられた。まず本書は、東アジアにおけるアクチュアルな問題に対して真摯に向き合うべく、専門知を超えた「運動としての学問」を標榜する著者の態度そのもの、という点である。二つ目は、著者自身の歴史経験に裏打ちされた叙述であることである。つまり、ご自身の経験(この点については中島先生との対談で詳しく述べられている)を通して、白先生の中で「東アジア」が徐々に輪郭を露わにしていくプロセスが読み取れる、という点である。三つ目は、「近代適応と近代克服の二重課題」に対する挑戦だということである。
こうした意義を踏まえ、次に崎濱さんは二つの疑問を示した。まず「実感」、「共感」、「連帯」など“感性”にまつわるキーワードが繰り返し強調されている点である。そのような“感性的なもの”に重きを置いた結果、倫理的な共同体が前提化されることで、“政治”(不和)が消去されてしまうのではないか、あるいは倫理的な共同体は、既存の体制に対して異議申し立てを行う「不和」に対する圧力にもなってしまうのではないか、というのが崎濱さんの懸念である。さらに、なぜ東アジアが「二重課題」を解決する糸口になり得ると想定されているのか、そして「近代適応・近代克服」のその先にいかなる理念を構想しているのか、という疑問も合わせて提示された。
崎濱さんによれば、近現代沖縄思想の基本的なテーマとは、日本の中に包摂された沖縄が国民国家日本という主体の中でいかに自らを思考していくか、という問いであった。その中で「アジア」という視点は、「反復帰論」を契機とした「沖縄/日本」という主体の問い直しの中から、現状の相対化を可能にする視点として発見・導入されたものであった。沖縄が経験した、このような歴史的経緯を踏まえ、崎濱さんは、今日東アジアが持つ意味とは、帝国日本、冷戦秩序、そして現在の脱冷戦体制といった歴史経験を共有し、また互いに照らし合わせてみることができる相互参照空間としての価値ではないかという問い、また「二重課題論」については、近代に適応・超克するための「主体」がすでに前提になっていることを指摘した上で、適応や克服を問題にする以前に、「主体」がいかに構成されてきたのかというプロセスを検討する必要があるのではないかという問いで発表を締めくくった。
金さんからは、雑誌『創作と批評』を中心に展開された「民族文学論」の、韓国言論空間における位置づけの系譜について、当時の朝鮮半島情勢の変化と合わせて説明がなされたのち、主に本書の東アジア論の可能性と限界について所感が示された。
「民族文学論」は、金さんによれば、植民地において出された、「民族」の矛盾(民族解放の課題)と「階級」の矛盾(民主主義的課題)という二つの矛盾を同時解決する方法として登場した経緯を持つことから、思想としての民族主義論という性格を有している。その後、90年代以降の民族主義批判の動きの中で、民族文学論を標榜してきた知識人たちの、自己更新の過程で出てきたのが「東アジア論」であった。要するに、韓国発東アジア論とは、韓国における民族的課題の延長線上で出された民族主義言説の拡張版なのである。
ここで金さんは、東アジア論が過渡期的に国民国家という主体を前提とし、長期的にはそこから国家や民族を超えるトランスナショナリズムを目指す段階論になっている点を指摘した上で、それに対する違和を表明した。国家や民族といった主体をひとまず想定するインターナショナリズムからの乗り越えによって目指されるトランスナショナリズムは、そもそも主体として国家と民族を想定しないトランスナショナリズムとは本来性格を異にするものであるはずだからである。さらに例えば朝鮮半島において、短期的にインターナショナリズムの志向による課題解決を図ったところで、民族の利害はおそらく超えられず、仮に分断が解消されたとしても、それは世界システム論や民族主義論の焼き直しに過ぎないため、分断解消後の社会においても東アジア的なアイデンティティをもってこの思想を維持できるのか、という疑問が残るためである。加えて、本書では東アジア論の前史である民族主義論への思想史的な検討が不在であるがゆえに、民族主義を乗り越えるという課題が簡単に設定されてしまっている。しかしそのことによって本書の議論が、具体的な事例を取り上げているにもかかわらず、妙に抽象的であるとの印象を与えているのではないか、との指摘もなされた。これらは、「東アジア論」の固有性や、それを掲げる必然性に深く関わる指摘でもある。
一方本書は、矛盾や分断の乗り越えにあたって「コミュニケーション的普遍」(疎通的普遍)という概念に注目する。しかし金さんは、個々の個体にコミュニケーションできる可能性が内在しているという筆者の確信にも疑問を呈した。そこでは、矛盾を矛盾として考えない主体が想定されていないからである。さらにこの疑問は、矛盾や分断は「解決」されるべきなのか、という問いへと進んだ。思想的課題の「解決」とは、実は政治的な課題である。したがって「分断を解決するためには」ではなく、「分断をどう思考すべきか」という問いこそが思想的課題になり得るのではないか、ということである。金さんはまた、「コミュニケーション的普遍」、すなわちより多数の人とコミュニケーションをとりながら共通認識をつくりあげる普遍性に重きを置く東アジア論は、究極的には民主主義そのものに対しては問題提起ができないのではないか、との懸念も提示した。
その後の全体討論でもさまざまな話題が出され、特に「主体」をめぐる課題に話題が集中した。参加者のひとりからは、「民族」の主体化によって周縁化される人の排除は、「場」の主体化によって免れるのではないか、との意見が出された。これに対し、著者が考える民主主義や変革対象としての民族主義はそもそも「場」を必要とすることから、筆者の思想の根底には「領域性」へのこだわりが見え隠れしている、といった指摘もなされた。そのほか、白先生の「歴史する」という概念や翻訳の問題に関する話題ものぼった。
師走に開かれた学術書の書評会ということもあり、参加者は5名と限られていたが、非常に濃密な討論が行われた。全体を通しての報告者の個人的な感想としては、近代からポスト近代への時代の変化を、まさに身をもって体験してきた白先生らの世代と、生まれたときからすでにポスト近代的価値観の中で生きてきた世代とでは、主体や領域といった概念に対する感覚的理解が、根本的なところで微妙にずれているのではないか、という印象を受けたことを挙げたい。既存の近代的概念や言葉を用いて近代の「その先」を思考・表現しても、それは実際のところ近代の枠組みから抜け出せておらず、真の意味で「その先」を思考したことにはならない、といった批判をよく耳にするが、今回の参加者のやりとりからも、誰もが見たことも考えたこともない全く新しい主体のイメージや価値観、あるいはそれらに基づく思想の言葉が今求められているのだということを強く感じた。
報告:吉田直子(東京大学大学院博士課程)