Blog / ブログ

 

[報告] エリザベス・シェクター助教授連続講演会

2017.01.17 信原幸弘

2017年1月4日から7日にかけて、セントルイス・ワシントン大学の哲学助教授であるエリザベス・シェクター氏を招いて、「分離脳と意識」というテーマで3回の連続講演会をUTCPの主催により開催した。

シェクター氏は、分離脳者の意識のあり方を考察することから、意識、自己、人格をめぐる諸問題に取り組み、さらにそこから心の哲学の問題一般へと考察を進めていくというユニークな方針を採って、独自の注目すべき成果を挙げている。分離脳は哲学的にきわめて興味深い現象だ。人間の大脳は左半球と右半球に分かれているが、通常はこの両半球が脳梁とよばれる太い神経束で結ばれており、緊密な情報のやりとりが行われている。したがって、両半球は二つの独立したものというより、一つの統合されたものと言える。しかしながら、分離脳においては、脳梁が切断されており、両半球の間に緊密な情報のやりとりがない。したがって、左半球と右半球はそれぞれ独立に情報処理を行う。しかし、そうであるにもかかわらず、分離脳者はふつう、一つの意識の流れをもち、一人の人であるようにみえる。ところが、その一方で、特殊な状況下では、分離脳者はまさに二つの意識の流れをもち、二人の人であるようにみえる。このパラドクシカルな状況をどう理解すればよいか。分離脳者は一つの意識の流れをもつのか、それとも二つなのか。彼らは一人の人なのか、二人なのか。ここに分離脳の問題の尽きることのない興味の源がある。

3回にわたるシェクター氏の講演では、まさに分離脳者のパラドクシカルなあり方の理解の問題に焦点を合わせて、刺激的な議論が展開された。各回の様子については、それぞれの回の特定質問者による以下の報告を参照していただきたい。

文責:信原幸弘(UTCP)

IMG_6085.JPG

第1回 The switch model of split-brain consciousness(1月4日)

Schechter氏による連続講演会の初日は、分離脳者の意識に関する‘switch model’に焦点があてられた。

例えばダンスを鑑賞しているとき、我々はふつうどのような経験をしているだろうか。ダンサーが音楽に合わせて踊っているのが見えるし、その音楽も聞こえているはずだ。ダンサーの踊りが見えるということと、音楽が聞こえるということは、それぞれ別々の事柄であるけれども、それらが一緒になって感じられている。踊りが見えること(視覚の経験)と音楽が聞こえること(聴覚の経験)、これらは全体としてはバラバラなものとして経験されてはいない。このように、複数の経験が意識の上で一つにまとまっている(このような関係を‘共意識[co-conscious]’という)ということは、我々の意識の基本的で重要な特徴である。通常、我々の意識は常に一つのまとまったものとなっているし、そのまとまりは(少なくとも同時には)一つだけである。

このような意識の特徴は、言われてみれば当たり前のことのように思われるかもしれない。ところが、‘分離脳[split-brain]’という事例においては、少々事情が異なるように思われるのだ。人間の脳は左右の脳半球に分かれているというのはよく知られている事だろう。そして両者は、脳梁[のうりょう、corpus callosum]と呼ばれる大きな神経の束によって連結されており、脳梁を通じて左右の脳は互いに瞬時に情報をやり取りしているといわれている。しかし、一部のてんかんの治療などの場合においては、脳梁を切断する外科手術が行われることがあり、そうやって左右の脳半球が分断された状態を分離脳と呼ぶ。

IMG_6080.JPG

この日の講演のテーマは、この分離脳状態の人の意識がどのようなものであるのかという哲学的問題である。問題の要点は、ざっくりいうと以下のようなものである。
 ・分離脳者は、特に実験環境においては、二つの意識のまとまりを持っているように思われる(例えば左右の視野に異なる画像を見せると、言葉では右視野側の画像だけしか見えないというが、左視野のほうの画像も左手で絵に描くことができる!)
 ・分離脳者は、日常的な行動を見ている分には、統合された一つの意識のまとまりを持っているように思われる
この二つの対立をどうやって説明すればよいのだろうか?

この問題を解決するために、意識の仕組みについていくつかの説明が哲学者たちによって用意されてきている。今回取り上げるのはその中でも二つのモデル、すなわちthe Duality Model(「二重モデル」と呼ぶことにしよう)と、the Switch Model(「切替モデル」と呼ぶことにしよう)である。この二つをざっくりまとめるとそれぞれ以下のようなものだ。
二重モデル:分離脳者は常に二つの意識のまとまり(左脳のものと右脳のもの)を持っていて両者が互いに競合している(勝ったほうが行動のコントロールをする)。
切替モデル:分離脳者は二つの意識のまとまり(左脳のものと右脳のもの)を持ちうるけれども、同時にはどちらか一方の意識のまとまりしか持てないので、主体としては常に一つの意識のまとまりを持つ。

IMG_6095.JPG


講演では、両モデルの利点や問題点が比べられ、結果Schechter氏は二重モデルのほうに軍配を上げる。その主な理由としては、二重モデルによっては説明できても、切替モデルではうまく説明できないデータがあるということ(すなわち、両方の脳半球に同時に別々の意識があるように思われるような事例があること。加えて、意識の通時的な統合を考えた場合にも、やはり左右の脳に二つの意識の流れがあるように思われるということ)、および二重モデルにのみ不利となると思われるデータも、実は解釈の余地があるということだ。

この日の講演はSchechter氏の発表が大ボリュームだったために、議論の時間は短くなってしまったが、例えばバイリンガルの人の意識のまとまりはどうなるのか、意識と自己や主体との関係はどうなのか、といった興味深い質問も出された。Schechter氏は各質問に対して明瞭かつ丁寧に答えてくれた。

以上がこの日の講演の概要である。「他の説明のモデルはないのか?」「意識のまとまりが二つあるのならば、その人は二重人格なんじゃないのか?」といった疑問を持った読者は、二日目、三日目の記事も読んでみるとよいかもしれない。また、この日の議論の詳細に興味がある方は、元ネタであるところのSchechter氏の論文(Elizabeth Schechter (2012): The switch model of split-brain consciousness, Philosophical Psychology, 25:2, 203-226.)を読んでみるとよいだろう。

文責:堀越謙治

第2回 Partial unity of consciousness: A prima facie defense(1月5日)

講演会二日目のテーマは、分離脳患者における現象的意識についての二重モデルと部分的統合モデルであった。意識経験の統合は程度的なものであるとする部分的統合モデルに対しては、いくつか特有の問題があることが指摘されているが、Shechter氏はそれらが部分的統合モデルのみでなく、二重モデルも直面する問題であると主張する。

部分的統合モデルによれば、大脳右半球に存在する意識経験Aと左半球に存在する意識経験Bが現象的に統合されることなしに、それぞれの意識経験が、分離脳手術によっては分離されることなく、両半球への神経接続を持つ脳部位に存在する第三の意識経験Cと統合されるという状態が可能となる。二重モデルと異なる点は、二重モデルにおいてはAとBのそれぞれの経験は、同一の内容を持つ経験Cの二つのトークンと統合されるのに対して、部分的統合モデルでは、AとBの二つの経験が、経験Cの単一のトークンと統合されるという点である。

IMG_6097.JPG

部分的統合モデルが直面する問題として、まず、経験AとBが経験Cの単一のトークンと統合されているのかどうかを決定する客観的な基準がないという指摘がなされているが、Shechter氏はその問題は二重モデルにも同様に当てはまると主張する。すなわち、経験AとBが経験Cの二つのトークンとそれぞれ統合されているということを知る客観的基準もないのである。また、意識の部分的統合というのが主観的に理解不可能であるという問題も提起されている。これに対してShechter氏は、部分的統合も二重モデルの場合と同様に、二つのパースペクティブを交互に想像すれば良いと応答する。意識の二つの流れを持つこと、部分的に統合された二つのパースペクティブを持つことにネーゲルのいうような「どのようなことか性」はなく、二つのモデルの間には主観的な違いはないのであるから、部分的統合が理解不可能であるならば、意識の二つの流れも同様に理解不可能であるということになるだろう。

今回のテーマが非常に難しい内容であったこともあり、レクチャー後のみでなく、レクチャー中にも活発な質疑応答が行われた。本講演によって、直観的に思い込んでいる意識構造に関して経験的なデータをもとに疑いを投げかけるという非常に貴重な体験ができたと思う。

文責:若林祐治

第3回 Bodies, selves, and self-consciousness(1月7日)

前二回の講演では、分離脳者の現象的意識のあり方が探究された。Schechter氏が支持するのは「二重説(the duality account)」で、それによると分離脳者は右半球と左半球にそれぞれ支えられる2つの意識を持つ。ところがこの帰結は、我々の持つ別の2つの直観と相容れない。多くの人が分離脳者は1人の人だと思っている。また、1人の人は1つの意識的な心を持つと前提されている。これら3つの命題はトリレンマをなしており、何らかの調停がなされねばならない。大脳を分離した人は、いったい1人の人と言えるのか、それとも2人の人だと言うべきなのか?

IMG_6104.JPG

分離脳者の全体をSと呼び、Sから右半球を除いたものを「レフティ」、Sから左半球を除いたものを「ライティ」と呼ぼう。レフティとライティの大部分は重なり合っている。それらは、大脳の片側の半球以外の身体部分を共有している。結局のところ問題は、レフティとライティが各々1人の人だと言えるかどうかという問題に帰着する。もし言えるのだとすると、分離脳者のうちには2人の人がいることになるし、言えないならば、分離脳者はやはり1人の人だということになる。

ところで人であるならば、自分を他人と弁別できねばならない。Schechter氏は、レフティとライティはまさにこの能力を欠いているのだと論じる。レフティが「私はその行為を行っていない」と考える場面を想像しよう。この思考の中に含まれる「私」は誰を指示するだろうか?それはレフティをつねに指示するわけでもなければ、分離脳者全体であるSをつねに指示するわけでもない。その指示対象は未確定である。もしそうだとすると、レフティとライティはそれぞれ自分とSを区別することに失敗している。そのため、それらは人に必要な能力を欠いている。したがって、分離脳者は2つの意識的な心を持つが、やはり1人の人であると言える。これは、レフティとライティが大部分重なり合っている「共身体化」の結果である。

私は特定質問で、自己指示の失敗には2つの種類があり、それを区別しなければならないのではないかと指摘した。すなわち、自分を指示するということがそもそも全くできない場合と、自己指示的思考を形成できるのだがその指示対象の同定ができない場合である。後者のタイプの指示を自己*指示と呼ぶことにすると、人であるために必要な能力は自己指示能力ではなく、自己*指示能力とすればよいのではないか。これが私の疑念である。なぜなら自己*指示能力を持てるならば、原理的には自己指示能力も持てるはずだと思われるからである。この考えによると、レフティとライティは単に混乱した人なのだと言える。すなわち、分離脳者は2人の人なのだ。

IMG_6109.JPG

質疑応答や講演後のディスカッションも非常に盛り上がった。とくに、今回のレクチャーではライティの心の能力が強調されていたが、右半球に発話能力の機構が備わってないとすると、ライティが本当に心を持ったり、人であったりできるのかという問題は興味深かった。また、意識メカニズムを探究する際に、分離脳でいまだ共通に持たれている部分である脳幹や大脳辺縁系といった部分の働きに着目する必要があるのではないかという議論も面白かった。私としては、パーフィットの推し進めたような人格の還元主義を分離脳にも適用していくのが、今後の1つの生産的な展開につながるのではないかとの思いを強めたのが収穫であった。

文責:林禅之

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • [報告] エリザベス・シェクター助教授連続講演会
↑ページの先頭へ