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梶谷真司「邂逅の記録88:自分の言葉を獲得する場を作る」

2017.01.01 梶谷真司

昨年は、学校という教育現場に関わることが多かった。そこで高校生たちや先生たちが対話を行い、自ら問い考える場を作る。そうするなかで、繰り返し痛感することがある。「なぜ授業を受けなければならないのか」「なぜ勉強しなければならないのか」――これはどこに行っても生徒たちから必ず出る疑問である。そして先生は、この問いに生徒が納得するように答えることができない。

こういう疑問を発する高校生のことを嘆く人は、少なからずいるだろう。特に年配の人、知識人、高学歴の人に多いのではないか。だがこれは、教育現場において、きわめて切実で深刻な問いである。生徒たちは、学ぶこと一般が無駄だと言っているわけではない。学校で教わることの意味が分からないのだ。私自身、分からない。なぜあんな役にも立たないことを大量に教わらなければならないのか。大学に行けば、「大学からは高校までとは違う。自分で学べ」と言われるが、そういう教育がなされているわけでもない。会社に入れば、「大学までとは違う。自分で考えて行動しろ」と言われるが、自分の考えや判断が尊重されることなどほとんどない。

なぜ教育は、次のステップに進むたびに、それまで学んだことが無意味であるかのように言われ(そして実際無意味だ)、やり直しをさせられるのか。そういうことを学ぶのに、中高6年間(小学校も含めれば12年間だが、小学校は比較的マシだと思っている)、ただひたすら学校に通い、教室に座って過ごす。生徒にできるのは、おとなしく聞くか、居眠りをするか、内職をするか、早弁をするか、学級崩壊を起こすかである。そういう学習する態度と成果に従って、生徒たちは「君はよし」「君はダメ」と評価される。教師によって、あるいは試験制度によって。

教育の目的は、そうやって選別し、序列化し、幾重にも排除の構造を作り上げることである。そして日本の教育は、この目的を見事に達成するきわめて優れたシステムだ。人格の陶冶や個性の尊重、自主性の育成、国際感覚の養成など、目標としてどんな美辞麗句を並べようと、教育の本質は制度としてこれなのだ(そもそも学校でやっていることの何がこういう目標につながっているのかまったく分からないが)。

もちろん学校生活には、苦しいことも楽しいこともあり、最終的には「いい思い出」「貴重な経験」になる。生徒は先生と必ずしも敵対しているわけではなく、仲が良く、感謝していることだってある。だがそれは、学校という場がかろうじて可能にしていることであって、学校教育そのものの内実ではない。

何かがおかしい。次の世代を担う子供たちのためにもっとも大切であり、国家的にも家計的にも多額のお金をつぎ込む教育が、内容が空虚なまま、たんに選抜と排除のシステムであっていいのだろうか。昨今大学を揺るがしているように、人文・社会科学の意味が問われているだけではない。事態はもっと深刻だ。教育そのものの意味が不明なのだ。

でもおそらく、世の中の多くの大人たち、とくに社会的に影響力のある人たちは、基本的に今の教育はこのままでいいと思っている。だから、変化はほとんど望めない。そのなかでできることは何か。

哲学とは、自ら考えることによって、自分の言葉を獲得することだ、と私は思っている。それはおそらく、個々の人が自らの人生を変えるもっとも有効な方法の一つである。そういう機会を学校の中に少しずつでも作っていくこと――今年はそんな年にしたい(あとは、もう少し自分のために時間を取りたい)。
 
明けましておめでとうございます。今年もUTCPをよろしくお願いします。
 
2017年元旦
 
UTCPセンター長 梶谷真司

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