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【報告】Fredrik Svenaeus氏講演会 "The phenomenology of suffering in medicine"

2016.11.29 石原孝二, 筒井晴香, 石渡崇文

 11月28日、スウェーデン、セーデルトーン大学のFredrik Svenaeus教授が"The Phenomenology of suffering in medicine"という題名で講演発表を行った。

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 発表の狙いは現象学的観点から苦痛(pain)と苦悩(suffering)をそれぞれ特徴づけることである。苦痛は様々な観点から分析可能である。医学的に認識される三人称視点の苦痛、看護において認識される二人称視点の苦痛、そして現象学的な経験としての一人称視点の苦痛である。苦痛を現象学的に考察することは、苦痛を感じるということの意味を探究することである。

 苦痛と言った場合すぐに思い浮かぶのは、指を怪我した時の痛みなどの身体感覚だが、こうした感覚としての苦痛には、すでにハイデガー的な意味での気分が結びついている。つまり苦痛の感じ(feeling)はそれ自体、苦痛の当事者が世界に開かれている仕方を告げているのである。それゆえ苦痛とは身体化された気分であるとSvenaeus氏は述べる。気分としての苦痛は、いらだちや悲しみ、怒りや恐怖、落胆といった否定的な情動(emotions)を導く可能性がある。気分も情動も評価的な価値すなわち信念を含んでいるため、苦痛の経験は最初からすでに中立ではない。そして強烈な苦痛の経験において、苦痛の当事者は自分の身体を自らにとって外的な(alien)ものとして感じるようになる。Svenaeus氏が例として挙げたのは、スウェーデンの作家ラーズ・グスタフソンの著作『ある養蜂家の死(The Death of a Beekeeper)』の描写である。この作品の中では苦痛が主人公の生きる世界に侵入し、すべての注意を要求するものとして描かれる。主人公はもはや「新聞を読むこともできない」し、「郵便ボックスまでの道のりは、まるで北極探検のよう」なものになってしまうのである。

 以上のような特徴を持つ苦痛に対して、苦悩の経験を特徴づけるのは「疎外の気分(an alienating mood)」である。疎外とは自分自身から切り離されているという感じであり、生きた身体(lived body)、日常的世界(everyday world)、生の物語(life narrative)の三つのレベルにおいて経験される。苦痛が苦悩へとつながることもあるが、常にそうなるわけではない。苦悩を引き起こすのは特定の種類の苦痛である。エリック・カッセル(Eric Cassell)によれば、苦痛が制御の困難なものだったり、原因がわからなかったり、慢性的なものだったりする場合、苦痛の当事者は苦悩を経験することが多い。それはこうした苦痛が我々の生の投企(life project)を阻害するからだとSvenaeus氏は述べる。予測できず、終わりの見えない苦痛は身体の運動や日々の習慣など、我々が日常的にやっていたことをできなくし、それによって我々の生の意味を構成している中核的価値(core values)を侵害するからである。

 最後に、このように現象学的視点から苦悩を定義することで、苦悩に対する治療的アプローチに貢献できる可能性があるとSvenaeus氏は述べている。苦悩が疎外の気分であるとすれば、非疎外化する(de-alienating)ことが回復につながると考えられる。それは上記の三つのレベルのそれぞれにおいて、身体への介入、環境の変化、中核的価値の変化(新たな活動に価値を見いだすよう仕向ける)という仕方で目指すことができるのである。

報告:石渡崇文(UTCP)

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