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【報告】景山洋平氏講演会「存在の問いの記憶と約束―『出来事と自己変容』について―

2016.08.29 石原孝二, 共生のための障害の哲学

 3月26日に、2015年秋に創文社より刊行された景山洋平氏(東京大学)の『出来事と自己変容:ハイデガー哲学の構造と生成における自己性の問題』の出版記念行事として、景山氏を迎えて、「存在の問いと記憶と約束:『出来事と自己変容』について」と題した講演をおこなっていただいた。また、コメンテーターとして、轟孝夫氏(防衛大学校)と田村未希氏(東京大学)に登壇いただいた。以下は、景山氏自身による当日の報告である。

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 この度機会をいただいた講演は、昨年9月に創文社より刊行された拙著『出来事と自己変容:ハイデガー哲学の構造と生成における自己性の問題』について、その概要と、私がそこから新たに導かれた哲学的課題を説明するものである。同書は2012年に東京大学に提出された学位論文を基盤とする。これに対し、現在の私の思想的境位は、その後の4年間の試行錯誤の延長にあるやや異質なものである。そこで、ハイデガーと同様に、私もみずから自身の思考の道を何年か歩んだ視点から、自分のハイデガー研究を回顧的に意味づけて、そこから、ハイデガーの問いを継承しつつ新たに展開されるべきプロジェクトを予告することを試みた。「存在の問いと記憶と約束」という表題に託したのは、このようなハイデガーと私の対話のプロセスに他ならない。

 『出来事と自己変容』の目標は、ハイデガーの思想形成を内面的に辿りなおすことを通じて、ハイデガーに限られない現象学的存在論一般の方法的基盤を確立することである。現象学の歴史をひもとけば明白なように、当事者として事象に居合わせる視点から人間と世界の存在の本質を探求する試みは、哲学者の数だけあると言えるほど多様である。メルロ=ポンティやレヴィナス、アンリといった<ハイデガー以後>の名前を挙げれば、そのことを容易に想像できるだろう。しかるに、1910年代の最初期から、1930年代〜1970年代の後期哲学にいたる非常に長いキャリアにおいて残されたハイデガーの「存在の問い」の試みは、時期によって同一人物とは信じられないほど多様な姿を見せており、それぞれの段階の思索は、現象学的存在論そのものの多様な姿を反映する。そこで私は、ハイデガー哲学の「道(Weg)」としての性格に着目し、その多様な姿を、「存在の問い」という単一のプロジェクトの内的動態の表れとして統合的に解釈するよう試みたのだ。換言すれば、現象学的存在論という営みを、固定的な存在論を確立することでなく、問う者自身が不断の「変容(Verwandlung)」を遂げる動的プロセスとして捉えることを提案したのである。

 さて、このように「存在の問い」の変容の道をハイデガーとともに歩むことで、2012年当時の私は、学位論文の最終的な洞察として、現象学的存在論の遂行者の多様なパースペクティブ間の関係こそ<存在論の遂行状況>の本質であるという一見して社会哲学的なテーゼにたどり着いた。拙著では、これは「保蔵(Bergung)」の連関という言葉で表現されている。その後、日本学術振興会特別研究員として三年間、現象学研究を中心としつつ、リハビリテーション研究や社会思想など他分野の研究者とともに、現代哲学における共同性の問題の取り組み、そうすることで、私なりの仕方でハイデガーの「存在の問い」を発展的に継承しようとした。そして、様々な試行錯誤をくりかえすなかで、最終的に、言語論、境界論、自由論の三つの主題に研究全体が集約されてきており、現在もこれを継続している。

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 以上が、講演の趣旨である。これに対し、コメンテーターの田村氏からは、ハイデガー哲学で重要な位置を占める学問論と私の解釈との関係を問う質問をいただいた。これに対しては、学問論は、確かにハイデガー哲学の重要な一部分であるが、それは、存在論を遂行する際の解釈学的状況の透徹化に仕えるものとしての限りであるから、それよりも論理的に先行する課題として「そもそも解釈学的状況の透徹化とはどういうことか」という問いを前提としており、この問いに対して現象学的存在論の内的ダイナミズムを考察することで解答を与えようとするのが私の解釈である、と応答した。轟氏からは非常に多岐にわたる質問を頂いたが、もっとも重要なものは、後期ハイデガーにおける「反復(Wiederholung)」を表す「保蔵」概念の性格付けに関するものだった。轟氏は、私が「保蔵」を<恒常的現前に還元されない非現前への空間的・時間的開放性>と形式的にのみ規定したことを批判して、ハイデガー本人は例えば技術批判のような仕方で実質をもった概念として「保蔵」をとらえているし、この事を強調してこそ、現代におけるハイデガー哲学の意義を正当に評価できるのでないかという熾烈なコメントをくださった。これに対して、私は、「保蔵」に実質を与えることは、恒常的現前性への形而上学的な自己充足を無批判に再生することでしかなく、そうした方向で読解する限り、竹林の隠者のように技術文明に背を向け続ける牧歌的だが不毛な哲学しか導かれない、と反論した。結局、轟氏と合意は得られなかったが、この対立にこそ、ハイデガー哲学が現代の人間性に対して持つ意義をどう評価するかという核心問題が隠されているのであるから、自身の見解をぶつけてくださった轟氏に感謝したい。

 当日は、日頃お付き合いさせていただいているリハビリテーション分野の先生もご来場くださるなど、とてもアットホームな雰囲気で行事が進行した。講演をご企画くださった東京大学大学院総合文化研究科の石原孝二先生のご厚意と、行事運営にご尽力くださったUTCPのスタッフの皆さまに心から感謝申し上げる。

(景山洋平)

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