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【報告】「国際哲学オリンピック・ベルギー大会 塚原遊尋」

2016.08.01

2016年5月12日(木)から15日(日)まで、ベルギーのヘントで開催された第24回国際哲学オリンピックに参加された、塚原遊尋さんの報告です。

*******************以下、塚原遊尋さんの報告********************

国際哲学オリンピック・ベルギー大会に参加させていただいた、塚原といいます。雑事にとり紛れてご報告が遅くなってしまいましたが、今回は紙面をお借りして、わたしが体験したこと、考えたことについて、寄稿させていただきます。

哲オリ、とわたしたちは呼んでいますが、哲学オリンピックは、わたしたちにとって、とても大切な存在です。教科書には載っていないような、根元的な「問い」と向き合うこと。同世代の仲間と対話し、エッセイを通して自分の考えを表現すること。哲オリは、そんな高校生が渇望してやまない「生きた学び」と出会える、貴重な「場」なのです。

国際大会に参加させていただいて、わたしの哲オリへの気持ちは、ますます強くなりました。世界中の高校生が、ベルギーのヘントという小さな街で、それは水を得た魚のように、語って、語って、語り倒した四日間。そんな、奇跡のような大会に参加して、わたしの人生は、ひとつの曲がり角を迎えたように思います。

なんといっても、世界の高校生たちと語り合ったことが忘れられません。話題はお国自慢から、社会、文化など、硬軟取りまぜ、あらゆる領域に及びました。高校の授業で「哲学」を学んでいる参加者も多く、しっかりとした哲学史の知識を背景に、日頃から、様々な「問い」と真摯に向き合っているという印象を受けました。哲学それ自体は学校で学び得るものではありませんが、先人が生み出した思考の枠組みや道具を積極的に活用できるのは、良いことだと思います。

とても「哲オリらしかった」と思うのが、どんなに下らない会話をしていても、誰かが必ず哲学的な「問い」を口に出し、そのあとの会話が哲学対話に発展するという心地よい「緊張感」があったことでした。哲学とともに、対話の土壌が育っているという印象を受けました。

とりわけ衝撃的だったのが、世界の高校生の、ロゴスの力です。対話が先鋭化され、ひとたび議論がはじまるや、論理と論理の空中戦になりました。自分の周りを見るかぎり、日本の高校には、意見を主張することが憚られるような雰囲気があります。あるいは、批判と否定の違いを弁えず、誰かを感情的に非難してしまうこともあるかもしれません。それだけに、主張すべきところは主張し、相手への「敬意を込めて」批判するという各国の高校生の姿は、たいへん新鮮に思えました。

ひるがえって、わたし自身はというと、悲しいかな、本格的な議論が始まった途端、まったく発言できなくなってしまいました。議論の流れは理解しているのに、自分の言うべきことがちっとも浮かんでこないという情けなさ。我ながらお粗末な話なのですが、日頃から自分はそれなりに弁が立つと自負していただけに、わたしにとっては大きな衝撃でした。

振り返って考えてみると、言語的な制約と議論のスピード感に気圧されて、日頃から空疎なレトリックに依存していたことの「ツケ」が回ったのでしょう。ショウペンハウエルが「優れた文章を書くためには、文体にこだわるのではなく、まずは表現すべき内容を所持しなければならない」という趣旨のことを書いていますが、実際、国際大会までのわたしの基本的なスタンスは、論理もへったくれもない感覚的な思いつきを舌先三寸のレトリックで包んで聴き手を煙に巻くという、綿菓子のようにふわふわと甘い考えでした。まったく、レトリックにかまけている暇があったら、まずは、自分のあたまで徹底的に考えるべきだったのです。そうすれば、たとえ英語で表現できる内容が限られていても、十分な説得力を持って議論に参加することができていたように思うのです。

恥の上塗りで書いてしまいますが、哲オリは、批判的思考の重要性を痛感する経験にもなりました。以前からあらゆることに「なぜ」を投げかけることの大切さは感じてはいましたし、実践していたつもりでしたが、哲オリを通してはじめて、問いかけること、そして、見慣れた物事を「未知化」することこそが哲学の本質だということを、肌身で、胃の腑で、感じたのでした。哲学は、安逸な日常に生じた「裂け目」であり、一度、疑問が生じたら、もう二度と後戻りはできません。以前のわたしはそのことに何となく恐れを抱いていましたが、高校生たちのきらきらした瞳を見るうちに、自分もこの道に溺れようという決心を固めたのです。

もし、「問い」こそが哲学の本質だとすれば、哲学対話は、ひとりでは進む方向すら見えない深遠な「問い」に、周りと協力して立ち向かうための方法です。もちろん、たいていの場合、「やっぱりわからないね」という結論で終わることになるのですが、分かっていると思い込んでいることを改めて「問いかけ」、未知化、あるいは無知化することに、大きな意味があるように思います。

その上で、もう少し手に負える範囲のもの、例えば、意見に対する疑問を突き詰めることは、大きな「問い」を探求するなかでも、不可欠なことだと感じています。英語という言語の性質もあるのかもしれませんが、哲オリに集まった世界の高校生たちが、あらゆる曖昧な主張に対して、必ず「理由」を質そうとしていたことが、今でも印象に残っているのです。日本の高校生だと、理由を省略して意見を述べても、まあそんなものか、と流されてしまうような気もしますが、哲オリの参加者はそういうところを決して見逃しません。クリティカルに考えるというのは決してイジワルな態度ではなくて、先ほども述べたように相手に対する尊敬の裏返しですから、批判的思考と緊張感のある「ツッコミ」は、実際に議論のスパイスとして、大切な役割を果たしていました。逆に、理由を尋ねられて即答できないような感覚的な意見は、議論の出発点としてはおもしろくても、対話にあっては望ましくないのかもしれません。

このように、国際大会への出場を通して、他の参加者のロゴスの力に圧倒されたわけですが、このことは「前向きな挫折」というか、将来に向けて自分が何をするべきかを考える、大きな経験になりました。彼らと再会する日のために、自分なりに研鑽を積んでいきたいと思います。

最後に、個人的なことになりますが、哲オリで得た仲間について、書かせていただきます。哲学サマーキャンプ、国内大会、国際大会を通じて、やはり、哲学という共通の「歓び」があるからでしょうか、素敵な仲間と出会うことができました。

学校では何となくセーブしているあんなことやこんなこと。哲オリで出会った友人たちとは、いくら話しても、話し足りません。何も分からないという無力感や、自分は何者なのか、という不安感を、さらけ出せる友人たち。中でも、一緒に国際大会に参加した石川くんと、3年来の哲友である翁さんは、盟友であり、終生のライバルであり、これからも共に語り続けていきたい仲間です。

ちなみに、今年の春休みには、昨年に引き続き、もはや恒例となった「哲学合宿」を行い、わたしの地元、瀬戸内の小島でコテージを貸し切って、朝から晩まで対話しました。首都圏も含めて10名以上が駆けつけてくれ、中には東京から青春18きっぷを使って、12時間かけて参加してくれた仲間もいました。みんなの哲学にかける気合いを感じるともに、哲友(phriends)の結びつきに心動かされる経験でした。

国際大会では、さすがに猛者揃いというか、すごい高校生がいるもので、ふらっと立ち寄ったカフェのピアノを弾き出した子がいるかと思えば、政治にやたら詳しい子、とにかく弁が立つ子など、個性が際立って、とにかく面白かったです。ちなみにピアニストの女の子の演奏は、てっきりショパンだと思いながら聴いていたのですが、あとから即興演奏だったと聞き、本当にひっくり返る思いでした。

参加者同士は今でもつながっていて、ヨーロッパの子たちは近いうちにリユニオンをするそうです(羨ましい限りです)。最初に書いたように、哲オリは、わたしたちにとって、とても大切な存在です。それは、哲オリが貴重な学びの「場」であるとともに、わたしたち高校生を結びつけてくれる「場」でもあるからです。

国際大会に参加させていただき、改めて、そのような哲オリを作ってくださった、たくさんの方々、特に、梶谷先生、林先生、北垣先生と、上廣倫理財団、そして事務局の佐々木さんに厚く感謝申し上げるとともに、これからも、この素晴らしい活動が、ますます裾野を広げていくためのお手伝いができれば、と思っています。

拙文を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


(岡山操山高校3年 塚原遊尋)
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