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【報告】Jesse Prinz講演会

2016.04.25 信原幸弘

2016年4月15日と16日の二日間にわたって、ニューヨーク市立大学のプリンツ教授による講演会が行われた。初日は、“Emotion: Embodied and Enactive”という演題で、情動の身体性について、二日目は、“Aesthetic Sentimentalism”という演題で、美に関する情動主義について、講演が行われた。以下は、3名の参加者による講演会の様子の報告である。

第1回 Emotion: Embodied and Enactive(4月15日)
第1報告者:勝亦佑磨

初日の講演では、プリンツ氏の「身体化された情動」に関する議論が展開された。
プリンツ氏はまず、心の哲学の議論においてよく話題にされる、伝統的な認知科学の立場と、いわゆる「身体化された認知」及び「エナクティヴィズム」の立場の相違点を示す。

伝統的な認知科学の見解によれば、心は「頭のなか」にあるもの(つまり脳によって生じるもの)である。それに対し、身体化された認知の立場によれば、心は、脳のみならず、身体や環境との相互作用によって生じるものであり、エナクティヴィズムの立場によれば、知覚をはじめとする心的状態は、行為のなかで生じるものである。

プリンツ氏は、講演のなかで、こうした身体化された認知及びエナクティヴィズムの議論が、情動にも適用できることを示す。プリンツ氏は、ウィリアムズ・ジェームズの議論を援用し、情動を身体的変化の知覚であると捉える。例えば、ヘビに対する恐怖は、次のように説明される。ある男性の目の前にいるヘビは、その男性にヘビの知覚を引き起こし、彼は立ちすくむという身体反応を示すとともに、その身体変化を知覚する。プリンツ氏によれば、情動とはこうした身体変化を知覚することにほかならないのである。

プリンツ氏はさらに、こうした身体化された情動の議論を「自己」に関する議論に拡張する。まず、プリンツ氏は、ヴァレラとマトゥラーナによる「オートポイエーシス」の概念を導入し、自己を、生物の内部/外部の単純な境界によって定義されるものではなく、生物の住む環境を含めた一つのシステムのなかで円環的に作り変えられるオートポイエティックなものであるという。そのうえでプリンツ氏は、この「オートポイエーシス」の概念が、情動にも適用できることを示す。つまり、プリンツ氏によれば、情動もまた、環境を含めた一つのシステムのなかで円環的に作り変えられるものなのである。

以上が、プリンツ氏の議論の概要である。講演会の後半は、こうした主張に対する質疑応答が活発に行われた。その際、先に述べた、情動とオートポイエーシスに関する議論は特に盛り上がりを見せた。また、情動と鬱病患者に関する問題や、単純な生物に情動を認めるかどうかという問題など、質問内容は多岐に及んだ。

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第2報告者:千葉将希
初日の講演では,情動(emotion)は一体いかなる本性をもつものとして理解されるべきかという問題に関して,プリンツ氏ご自身の見解を示す議論が展開された。

講演の概要は,大まかに言うと以下の2つの主張に集約される。第一に,認知の本性については伝統的な認知科学の考えと「身体化された認知」(embodied cognition)の考えの対立があり,両者は(1)認知の機能,(2)心の所在,(3)認知操作のあり方,(4)思考の本性,(5)知識の本性,(6)自己の本性に関する捉え方が大きく異なるという主張だ。そして第二に,知覚についてはこの身体化された認知の考えが当てはまるかどうか(経験的見地から)疑わしいところがあるが,他方で情動についてはよく当てはまると考えられるという主張である。プリンツ氏は特にこの2点目に多くの時間を割き,(ときに日本の伝統文化やポップカルチャーといった親しみやすい具体事例を持ち出しつつ,)その明快かつ具体的な解説を繰り広げられた。

会場からは,本講演でのプリンツ氏の議論に触発されるかたちで,(カプグラ症候群などの)精神疾患と自己の同一性の関係,中核的自己と社会的自己の関係,動物の心の有無など,実に多岐にわたるトピックの質問やコメントが活発になされた(またプリンツ氏による応答の過程で,氏ご自身の考えの変遷も明らかにされる興味深い一幕もあった)。情動の本性にまつわる問題が幅広い射程をもつものであること,またそれがいまなお多くの難しいパズルを突きつける探求領域であることを改めて認識させてくれる,非常に貴重な機会だったと言える。

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第2回 Aesthetic Sentimentalism (4月16日)
報告者:源河亨

二日目の講演テーマは、美的なものの基礎に情動を据える「美的情動主義(aesthetic sentimentalism)」である。

価値にとって情動が本質的な役割を果たすと主張する「情動主義」は、道徳の領域ではすでに有名である。とくに近年では、情動に関する経験科学を用いて道徳の自然化を目指す道徳的情動主義が注目を集めている。Prinz氏はすでにそうした立場を展開しているが(The Emotional Construction of Morals)、最近はさらに美的な領域にも踏み込んでいる。本講演ではさまざまな論点から美的情動主義の展望が語られたが、ここではそのうちの一部を紹介したい。

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たとえば、街頭に植えられた木を単なる木として見る場合もあれば、その木を鑑賞対象として美的に見る場合もある。この違いは、何らかの情動を伴って木を見るかどうかの違いであると考えられるかもしれない。実際に、情動を感じる能力が減退した症例では、美的な興味が薄れ、美的判断についてかなり個人主義的な見解を支持する傾向があると言われている。こうした事例は美的経験/判断と情動の結びつきを示唆していると言えるだろう。また、情動主義では、美的知覚とは情動と結びついた知覚であると主張することになるだろうが、実際に情動と知覚を結びつける神経構造があると示唆されている。さらに情動主義では「美的情動をもって対象を評価する態度をもたらす人工物が芸術作品である」といったように、芸術の定義を与えることも可能かもしれない。(講演ではこの他にも、美的原理、美に関する論争、美的概念、人が美を求める動機、といった話題と情動との関連が示唆された。)

美的なものの基礎に情動を据えるとしても、人がもちうる情動のなかには美や感性に関係ないものもたくさんある。では、どの情動が美的情動なのか。Prinz氏はその候補として驚嘆(wonder)を提案している。驚嘆は快、喜び、興味、賞賛、感心といった、美的情動の候補としてこれまで挙げられてきたさまざまな情動の良い部分を兼ね備えたものであり、最も見込みがあると考えられるのだ。

本講演には哲学研究者だけでなく美学研究者も多数出席しており、全体討論では非常に活発な議論が交わされた。今回は美的情動主義の展望の説明に重点が置かれ、細かな論点や対立する立場との比較は検討されなかったが、それに関してはPrinz氏が現在執筆中であるというWorks of Wonder: A Theory of Artの完成を待ちたい。

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