【報告】東京大学―北京大学合同ウィンターインスティテュート(5)
引き続き、2016年1月に行われた北京大学と東京大学の批評理論に関する冬期インスティテュートについての報告です。今回は、1月12日の模様に関してUTCPのRAである菊間晴子さんに執筆してもらいました。
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1月12日午前は、北京大学の張旭東氏によって、Mao Zedong(毛沢東)および Louis Althusserの「矛盾(contradiction)」をめぐるテクストについて講義が行われた。Althusserによる論文 “Contradiction and Overdetermination” (1962)は、Maoの思想を西洋の左翼知識人に紹介したという意義を持つが、その射程はあくまでもアカデミックなものにとどまる。しかしMaoによる “On Contradiction” (1937)は、より具体的で複雑な社会状況に即した分析であるという考えが、講義の出発点であった。
張氏は、Maoの論考を特徴づける幾つかのキーワード———「対立物の統一(unity of opposites)」、「質的可変性(qualitative changeability)」など———を挙げながら、彼の思想を検討した。教条主義を批判し、個々の特殊な社会・政治・経済状況を注視することを通して、矛盾の運動としての普遍性を捉えようとするのがMaoの立場である。それゆえ彼の論考は、戦時下の、生きるか死ぬかの極限状況における実践のメソッドとして評価されるべきものなのである。
ディスカッションにおいては、現在の中国が打ち出す「調和 (harmony)」というレトリック、あるいは台湾・沖縄・朝鮮半島といった東アジアの周縁における状況は、Maoの思想に照らしてどのように考えられるか、といった問題が提起された。アカデミアにおいてMaoを読むことはあまり歓迎されない状況にある(中国においてはなおさら制約が多い)なかで、今を生きる我々がメソッドとしての彼のテキストについて再考することの重要性が指摘された。
午後の講義は、シカゴ大学の橋本悟氏が担当してくださった。橋本氏の講義は、Paul de Man “Literary History and Literary Modernity
” (1970)を下敷きとしつつ、東アジアの文脈を導入することによって、それを批判的に検討するものであった。De Manはこの論文の中で、Friedrich Nietzscheのテクストを参照しながら、モダニティとは歴史から自らを切り離し、新しい起源としての行動を起こさんとする欲望に立脚するものであると述べている。だが、生成力としてのモダニティは必然的に歴史と結びついてしまい、それゆえに本質的にモダンである文学もこのパラドックスを抱えることになる。De Manの立場は、文学とは何かという問いに存在論的に答えることはできないのであり、ただ「文学史(literary history)」のみが想定されうるというものである。
橋本氏はこのDe Manの論考について参加者の見解を問うとともに、彼とは別の形で文学とは何かという問題について考えた東アジアの文学者として、Yi Kwang-su(李光珠)、Lu Xun(魯迅)、夏目漱石の名を挙げた。例えば漱石は、あえて文学的書物を読むことを止め、文学から身を離すことによって、彼自身の文学論を作り上げようとしたのである。
西洋の批評理論を学び、それを東アジアの事例に当てはめるという方式からは離れて、批評理論の新たなあり方を考えることができるか。このような大きな問いを参加者に投げかけることが、本講義の目的だったといえよう。その試みに応えて、参加者からは活発に質問・意見が提出された。歴史主義的・西洋中心主義な既存の批評理論を乗り越えることが、「矛盾(contradiction)」としての世界文学を射程に収める上で必要であることが示唆され、講義は幕を閉じた。
文責:菊間晴子(東京大学大学院博士課程・UTCP)