【報告】東京大学―北京大学合同ウィンターインスティテュート(4)
引き続き、2016年1月に行われた北京大学と東京大学の批評理論に関する冬期インスティテュートについての報告です。今回は、1月11日の模様に関して東京大学大学院の金景彩さんに執筆してもらいました。
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1月11日は、東京大学・北京大学共同主催のWinter Instituteの第四日目であった。
午前の部では、北京大学の蒋洪生氏により、Fredric Jamesonの“Antinomies of Realism”における「情動(affect)」について講義が行われた。講義では、Fredric Jamesonにおける「情動(affect)」を理解するための予備的考察として、近年における情動理論(The Affect Theory)の展開を簡略に検討した(Brian Massumi、Eve Sedgwick、Adam Frank、Silvan Tomkins、Michael Hardtなどによる議論)。類似概念であるemotion、feelingと区別される「情動(affect)」は、感情(emotion)のように明確な主体を持たず、感覚(feeling)のように外部の刺激に対するただの反応を意味するものでもない。それは、ある行為に潜在的に開かれたもの、したがって規範に包摂されないもの、名づけられないもの、「永遠の現在」に属するものである。Jameson は、言語体系を超過する「情動(affect)」とナラティヴへの欲望との緊張関係のうちにこそポストモダンのリアリズムが可能だとし、Émile ZolaやGustave Flaubert、Honoré de Balzacの作品のうちにそのような緊張関係の文学的再現を読み解いていく。講義の後には、ポストモダニズム批評における「情動(affect)」の浮上と現象学的身体の言語的表象の問題を関連づけて理解することの必要性、さらには、集団的記憶といったあらゆる政治性を拒否する非歴史的な「情動(affect)」をリアリズムという既存理念の中で意味づけようとするJamesonの試みが「外部なき世界」に対して持つ意義について議論がなされ、非常に有意義な問いを得ることができた。
午後の部では、東京大学の林少陽氏により、柄谷行人の『世界史の構造』のなかのネーション概念をめぐって講義がなされた。近代のネーション・ナショナリズムは、個人を特定の集団に属させる機能的側面を持つのみならず、それ自体ある種の信仰の対象としての様相を帯びる。柄谷はそのようなネーションの位相を解明するために、それを近代において発明・想像されたものとするErnest Gallner、Eric Hobsbawm、Benedict Andersonなどの議論をカントの『純粋理性批判』を援用しながら再解釈する。柄谷によれば、想像(構想力、imagination)されたものとしてのネーションは、悟性(understanding)に基づくステートと感性(sensibility)に基づく資本(capital)を超えるものであると同時に、資本、ステートが転覆されないように調整するものでもある。ここで柄谷は、ヘーゲルに対するマルクス的転倒をカントを経由して行い、さらにはそれを資本-ネーション-ステートの哲学的解明として提示しているのである。ディスカッションの際には、資本(capital)を感性(sensibility)に結びつけることの正当性や、柄谷の方法を生み出した戦後日本の思想史的条件、また東アジアにおけるカント哲学の受容について問題提起がなされた。資本-ネーション-ステート以降を構想しようとする柄谷の近年の試みがいかなる哲学的土台の上に築かれたものなのか確認できた会であった。
文責:金景彩(東京大学大学院博士課程)