【報告】東京大学―北京大学合同ウィンターインスティテュート(3)
引き続き、2016年1月に行われた北京大学と東京大学の批評理論に関する冬期インスティテュートについての報告です。今回は、1月7日の模様に関して東京大学大学院の平井裕香さんに、そして1月8日の模様に関して東京大学大学院の西岡宇行さんに執筆してもらいました
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1月7日午前は、北京大学の蒋洪生氏が、“Fredric Jameson’s Poetics of Social Forms”というテーマでご講義くださった。JamesonのThe Modernist Papers (2007) のIntroductionをもとに、文学におけるform(形式)とcontent(内容)という伝統的二項対立を、両者のあいだの弁証法の観点から再検討するという内容である。Jamesonによれば、いかなる内容、あるいはイデオロギーもその形式から自由ではあり得ず、またいかなる形式、あるいはジャンルも内容から自由ではあり得ない。したがって、テクストの理解にあたっては、「内容の形式」および「形式の内容」という一見矛盾するカテゴリーを考慮する必要があるという。そしてこの論点は、文化的形式と社会的編成の動的関係というJamesonの基本的問題関心を反映しているといえる。講義後のディスカッションでは、世界の全体像の把握から書き手を疎外する歴史的諸条件、その一形式としてのコミュニケーションの不可能性、以上の議論とJamesonのいうアレゴリーとの関連といった問題が提起された。
午後は、東京大学の林少陽氏が、柄谷行人の”The Discovery of Interiority”について、これを所収するOrigins of Modern Japanese Literature (1993) の全体像とあわせてご講義くださった。同著において柄谷は、視覚中心主義と音声中心主義、またこれらに共通する均質性と線状性を近代性の中核とみなし、西洋からそれらを輸入することをもって日本文学は近代化を果したと論じる。柄谷によれば、明治期の日本における近代的自我の発見は、それという内容あるいは内面(Interiority)が言文一致という形式を生んだと考えるべきではなく、むしろ言文一致という形式が近代的自我という内容を指し示すようになったものと考えるべきであるという。以上の柄谷の議論は、遠近法の哲学という彼の広範な関心の中に位置づけられるとともに、日本近代文学の生成・発展を江戸時代の文学や教育、東アジアの他地域との比較へと開いてゆくものである。ディスカッションでは、論者としての柄谷自身が置かれた文脈や、柄谷の論が「日本」「近代」「文学」への見方にもたらした、またもたらさなかった影響といった問いが出された。
文責:平井裕香(東京大学大学院博士課程)
1月8日午前は、張旭東(Zhang Xudong)氏による「ベンヤミンとシュミット:主権に関して」(”Benjamin and Schmitt on Sovereign Power”)と題された講義が行われた。
本インスティテュートは批評理論を主題とし、文学の領域に中心的に関わるものであるが、文学を論じるに当たって、政治を省みることは不可欠である。文学は自律的な領域として政治と区別されるわけではない。両領域の相互貫入性を考慮に入れる時、主に政治に関わったものとして、主権、そして主権の発露の一つである法の非自律性を暴くベンヤミンとシュミットの労作を見ていくことは、比喩に始まる数種の固有の法によって支配される文学という領域の自律性を問いに付すことにもつながるのである。
以上のような理念の下、上記二者の指定テクスト(『レヴィアタン』、『暴力批判論』)に丁寧に寄り添いながら、原初の暴力によって可能になる主権の究極的な無根拠性が解説された。その過程で、日本・アメリカ・香港における主権の有り様など、具体的な事例に即した政治的な考察や議論がなされた。
午後は、中島隆博氏による、普遍性に関する講義が行われた。
講義は2001年のデリダによる「中国には哲学はない」という発言に言及するところから始まる。後期デリダは何ものによっても規定されることのない「正義」を、その思想的対象にするようになった。しかし、このような正義の存在を本当の意味で主張するのであれば、正義にまつわる哲学もまた、西欧の外にも通用可能な、ある種の普遍性をもつものとして考えるべきなのではないか?それでは、そうだとして、この場合、「普遍性」とは何か。
フランソワ・ジュリアンは普遍性に関して、常に人権という目的を目指す一つの過程として捉えるべきだと論じる。もちろん、この場合「人権」の定義は実体化したものとして存在しない。しかしながら、そこにそのような目的が存在すると仮に措定し、その目的に向かう途上の動的なプロセスとして普遍(化)を捉えることはできる。このプロセスは、言語を用いて思考することの中で行われるという意味で、翻訳を不可避に介在する。この場合、翻訳は、自言語体系にない異質な思考を導入するという点から、新たな言語を創造する試みでもある。今求められているのは、西洋東洋にかかわらず過去にあった様々な普遍化の試みを読み直し、翻訳を通した創造を介することで、その可能性を新たな形で汲み、オルタナティブな普遍性を模索することではないだろうか。
以上のような問題提起と共に、講義は終了した。
文責:西岡宇行(東京大学大学院修士課程)