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【報告】東京大学―北京大学合同ウィンターインスティテュート(2)

2016.02.04 中島隆博, 林少陽, 川村覚文, 柳忠熙, 新居洋子, 橋本悟, 菊間晴子

引き続き、2016年1月に行われた北京大学と東京大学の批評理論に関する冬期インスティテュートについての報告です。今回は、1月6日の模様に関して、東京大学大学院の石丸恵彦さんに執筆してもらいました。

***
1月6日、初日は9時45分より開始された。初回のテクストはドゥルーズのカフカ論、及びF.ジェイムソンの「第三世界の文学」に関する論考である。まずは北京大学の張旭東氏による、ドゥルーズのテクストの丁寧なレクチャーから始まった。このテクストで提唱される「マイナー文学」の概念は、言語の脱領域化、私事が即座に政治につながること、あらゆることが集団的な価値を持つこと、といった特徴によって定義される。中でも脱領域化、即ち種々の「領域」からの排除が、その文学を「マイナー」たらしめているのであり、この状況に立ち向かおうとする文学の創造はまさに政治的な行為となる。続けてドゥルーズは、独特な「アレゴリー」論を展開する。カフカの作品における他なるものへの「変身」はメタファーではなくアレゴリーであり、これは強度と速度を持って、直接的に政治に結びつく。このことを、ジェイムソンは明確に「国民的アレゴリー」という用語で語っている。

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ディスカッションでは、アレゴリーとは何か、またジェイムソンのいう「第三世界」を日本と中国についてはどのように考えたら良いのか、といった点が議論された。

午後の部は、午前中に引き続く質問で幕を開け、続いて中島隆博氏によるレクチャーが行われた。課題文献は竹内好「方法としてのアジア」であるが、単なる読解ではなく、竹内の近代に対する向き合い方そのものを問題とするような講義であった。日本には日本としての内発的な近代がなくてはならない、と竹内は言う。しかし、その「方法」として「アジア」が提唱されるとは、いったいどうしたことか。さらに、そこにおいて中国は、とりわけ魯迅は、どのような視線を持って見られているのか。

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講義およびディスカッションの話題は文献の範囲を大きく超え、最終的にドゥルーズの生成変化の含意する「倫理」と毛沢東の文化大革命を支えた「道徳」の差異、という論点にまで及んだ。現状とは異なる在り方を志向し、「他なるもの」になろうとする点で、両者は同様のものを志向しているとも言える。生成変化や革命における倫理・道徳のあり方は、いかなるものでありうるのか。

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こうした種々の問いが開かれた形で、初日のセッションは終了した。哲学・文学・政治にまたがり、また東西の思想を結びつけるスタイルは、本インスティテュートならではのものと言えるだろう。

文責:石丸恵彦(東京大学大学院修士課程)

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