【報告】UTCPワークショップ「芸術と日常性」
2014年9月リヨン高等師範学校でのセミナーから始まった日仏共同研究「芸術と日常性」の第3弾をUTCPで開催することになった。日程は2015年10月16日の金曜日。本共同研究は、リヨン高等師範学校・准教授で哲学・映画学が専門のエリーズ・ドムナック氏、東京大学人文社会系研究科・教授でフランス文学が専門の塚本昌則氏、そしてUTCPの桑田光平の三名によるものである。今回はリヨン高等師範学校の学生3名による発表と、すでにUTCPでも過去に講演を行ってもらったエリーズ・ドムナック氏による発表が行われた。
エリーズ・ドムナックの発表は、カタストロフィと日常表象に関するもので、前半部では「日常における(あるいは日常の中の)カタストロフィ」について理論的な枠組みが提示され、後半部は、3・11を扱った具体的な映像作品--小林政広の『ギリギリの女たち』など--の分析が行われた。前半部において紹介されたのは、日常の中に「世界の終わり」の可能性が入り込んだため生じる人々の破滅的なまでの懐疑と、内的なカタストロフィと外的なカタストロフィのパラレルな状況について論じられたカヴェルのベケット論であった。そこからドムナックは、「日常に対する懐疑の脅威を表現するのにもっとも適したメディア」である映画において、日常生活におけるカタストロフィの表象がどのようなものかを、『ギリギリの女たち』における登場人物が踊る場面をとりあげながら分析した。
シャルロット・デュランは、当初発表されていたタイトルのうち岡田利規の作品、とりわけ『現在地』に収められた「現在地」、「地面と床」におけるメタファーの使用などから、3・11以降の岡田と身体や時間との関係性を探った。
アントワーヌ・リゴーはポール・グリモーのアニメーションにおける日常の表象を、とりわけ、どのような空間表象の処理が行われているかに着目することで分析した。やや時間切れとなったが、最後には宮崎映画に見られる日常を驚異に変容させる手法が手短に紹介された。
クレマンス・デュマは、アントワーヌ・リゴーとは反対に、「持続」の次元において現れる「日常」を、小津の映画と侯孝賢の映画の比較分析を行うことで明らかにした。一般的に言われるような表層的なレベルでの両監督のfiliation(影響関係)とは異なる視点が出されたのはたいへん興味深かった。
すべての発表が終わった後で桑田からコメントを行い、また、出席していた森元庸介氏からも「日常(quotidien)」と「通常(ordinaire)」との語源的な差異をはじめいくつかのコメントが出された。議論の時間が十分にとれなかったのは残念ではあったが、その後の昼食会も含めて、リヨンの学生と東大の学生のささやかな交流の場を築くことができた。今後もこの種の交流が続けらることを切に願っている。
文責:桑田光平(UTCP)