【報告】「作者の死」を超える―西田幾多郎と作者の自己限定―
去る7月24日、カイル・ピーターズ氏(シカゴ大学博士課程)によって「「作者の死」を超える―西田幾多郎と作者の自己限定―」と題する発表が行われた。
本発表では西田幾多郎の哲学を通じて芸術創作の理論が検討された。その目的は、「個人作者」と「作者の死」の言説に代わるものとして、芸術創作のオルタナティブな理論を提出することである。
「作者」を歴史的、唯物的に形成されたものとする構造主義とポスト構造主義の展開に伴い、多くのフェミニズムやポストコロニアリズムの研究者は主観的主体(エージェンシー)の欠如や(ポスト)構造主義における芸術創作理論の客観的条件の優先を問題視している。とりわけ、主体の存在を否定し客観性を優先する言説において女性の主観や植民化された主観が軽視されるとして批判した。しかし、この批判は近代の自主的、非歴史的、不変な「個人作者」という概念への回帰を求めているわけではなく、主観と客観の相対的な関係によって形成された理論、すなわち、均衡のとれた芸術創作理論を求めている。
これらの妥当性を踏まえた上で、本発表では、まず、西田の1925年の「表現作用」の主客対立に内在する根本的な作用としての「自己自身」という概念に注目した。その理由は、芸術創作において自己自身の不定型的構造は主観と客観という区分を超え、多方面に溶解し、拡大すると主張するためである。
次に、西田の「行為的直感の立場」をはじめとして、「論理と生命」や「歴史的形成作用としての芸術創作」などのプロセスの枠組みを参照した上で、芸術作品とその創作過程における主体の多元的様相を結びつけて論じた。歴史的世界による限定の中にありながらも、芸術品の創造を通して芸術家が新たに創出されることになる。なぜかというと、作品自体が自己限定を創造的に再構築し、再形成し、再編成するからだ。
バルトの「作者の死」が「読者の誕生」させたように、西田の芸術的直観は芸術創作、芸術作品、芸術家、それにそれぞれの概念においての関係性の再解釈には非常に有用だと本発表では主張した。主体的なエージェンシーは行為的直観に保たれ、主体性は客観性との関係において成り立ち、多と一の相互接続において成立するからである。
芸術創作は創出においての「変わり行くものへ」の双方向性であり、主体性を創出する限り、主体性が言説に縫合されていると同時にその言説を乗り越え、ヘゲモニー的でイデオロギー的な権力を再構築し、再び方向づける。とすると、作品の後ろに立ち、全作品のつながりとして機能している安定的な主観性・個人は存在していない。その代りに、能動的でプロセス的な主体性があり、それは現在において創作し・創作され、消滅し・消滅されているのである。
文責:カイル・ピーターズ(シカゴ大学博士課程)