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【報告】2015年度東京大学-ハワイ大学比較哲学夏季インスティテュート(1)

2015.09.25 梶谷真司, 中島隆博, 川村覚文, 安部高太朗

2015年8月、東京大学はハワイ大学と共同で比較哲学夏季インスティテュート(UT-UH Summer Institute)を開催しました。

第1回目の2012年はハワイ大学、第2回目の2013年は東京大学、そして第3回目の2014年はハワイ大学がそれぞれホスト校となり行われました。第4回目となる今年2015年は東京大学がホスト校となり、三週間のプログラムを主催しました。日程としては、東京大学東洋文化研究所にて前半の10日間の講義を終えた後、残りの10日間で京都大学と高野山を訪問し、それぞれの場所で東洋哲学や仏教思想などの講義を受けました。すでに報告しました事前勉強会に続いて、今回から数回にわけて、実際のプログラムにおける活動に関して報告いたします。なお、例年と同じく今年も上廣倫理財団から格別のご支援を賜ったことを記させていただきます。

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初日の8月3日(月)は、午前に中島隆博先生(東京大学)が、午後に石田正人先生(ハワイ大学)がそれぞれ講義された。

午前の中島先生の講義は“Xunzi: Rectification of Names”(「荀子:正名」)と題して、まず『論語』での孔子の議論を緒に、それに対する荘子の批判、最後に荀子の議論について紹介がなされた。まず『論語』子路編の議論。孔子は「名が文化および教養の起源である」という趣旨の話をしており、この点では「名を正すこと(rectification of names)」は政治に結びついている。次にこれとは違った立場としての荘子。荘子は「言語は意味を得るための手段」というある種の言語秩序観を持っており、彼は「忘れられた言語(forgotten language)」という独特の言い回しで意味の獲得後において言語は忘れられるべきものに過ぎないといった考えであった(聖人の言語観)。最後に荘子に対して異論を唱えた荀子。この講義の主題となる荀子の場合は「名には固有の善さがある」という立場であって、孔子の立場を引き受けつつ「旧名に従って新名がつくられる」という見方をしている。三者の議論を踏まえつつ、中島先生からは「我々は荀子流の言語観を踏まえるならば言語の誤用を避けることはできるのだろうか」と問いが投げかけられ、院生・学生の議論が活発になされた。

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午後の石田先生の講義は“Kukai: Overview of his Life and Work”(「空海:その生涯と仕事」)と題して、空海の生涯について当時の仏教をめぐる時代状況を踏まえて概観した。講義の中では空海が学んだ奈良という土地の性質にも言及があった。実は、奈良の石田先生のご自宅から最寄りの駅までの途中にある寺には鎮守の神社もあるとのこと。石田先生は「神仏習合(syncretism)」がいかなるものかを具体的な写真や地図などで位置関係を示しつつ説明された。また空海の著作『三教指帰』について内容の紹介がなされた。空海が、当時の最先端の仏教学問を学ぶために入唐した次第が明らかになるとともに、空海その人が仏教者であると同時に相当な才覚の持ち主であったことがよくわかった(例えば、「三筆」として知られているほどの書家でもある)。講義を通じて、空海の生涯とその時代性について知ることができ、その後の講義および彼の著作を読む際の基礎が得られた心持ちであった。

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文責:安部高太朗(UTCP・東京大学大学院博士課程)

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