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【報告】2015年度東京大学-ハワイ大学比較哲学夏季インスティテュート(2)

2015.09.25 梶谷真司, 中島隆博, 川村覚文, 井出健太郎

引き続き、2015年8月に行われたハワイ大学と東京大学の比較哲学インスティテュートについての報告です。今回は、2日目(8月4日)の講義の様子について、井出健太郎さんに執筆してもらいました。

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8月4日午前は、ハワイ大学のAmes先生による“Reading Xu Bing’s Book from the Sky: A Case Study in the Making of Meaning”と題された講義が行われた。本講義は、現代中国の芸術家・徐冰が、4000字に及ぶ偽漢字を用いて制作したインスタレーション作品「天書」の解釈から出発して、「意味」の生成に関する中国思想の議論を検討し、理解を深めていくものであった。
徐冰の作品は多様な政治的-歴史的な解釈を呼び込んできたが、Ames先生は、とりわけポストモダニズムへの同作品の回収を批判し、むしろ「意味はどこからやってくるか?」という問いをめぐる中国思想の文脈に同作品を置きなおすことを提案された。その後先生は、『荘子』斉物論篇の「夫言非吹也、言者有言」を導きの糸に、言語の「意味」をめぐる中国思想の展開を次々と案内してくださった。Ames先生は、西洋哲学の伝統におけるsubjective/world、mind/bodyという二元論の困難を批判する可能性を中国思想に探究され、そこで人が言語をふくむ適切な行為を通じて人、世界と絶えず関係づけられていくようなコスモロジーの理論化を試みられている。この議論によれば、“meaningful”であるということは、プロセスのなかで“appropriate”な仕方でふるまうことと同義であり、その意味で認識と倫理(さらに美)は不可分であるとされる。このことをAmes先生は「義」という概念によって理解され、そこに中国思想における「意味」の源を見出されようとしていた。
Ames先生の講義からは中国思想を「生き」ようとするその情熱が伝わってきた。しかし、一連の関係性のなかで自らの行為を再帰的に問う契機は、いかに概念化されうるのだろうか。「義」の条件をめぐる議論が別に必要なのではないか。いずれにせよ今後の議論の深化が期される充実した講義であった。

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8月4日午後は、東京大学の梶谷真司先生による“Language and Identity”と題された講義が行われた。「講義」とはいえ、先生ご自身が関わっておられる哲学対話の方法を生かされ、「言語がいかに集団的・個人的アイデンティティの形成に関わるか」という問いをめぐる徹底した討論が行われた、と言う方がふさわしい。
一般に言語が意志疎通の手段としてまずある以上、それが何らかのアイデンティティの形成に深く関わり、とくに近代において、言語の統一は国民国家の成立と強く結びついてきたことも確かであろう。それゆえ、言語はまた包摂と排除を伴うものであり続けている。例えばこの講義は英語で行われたが、そこには一定の選択の力学が働いており、講義中に英語で発話することは、意識しようがしまいがすでにあるアイデンティティの表明となるほかない。また討議でハワイ大学の学生が述べたように、国際的な共通語とされる「英語」さえアクセントや習熟度に応じて内部に多様性を抱え、無数のアイデンティティの表現をもたらすだろう。討議では、言語とアイデンティティの関係が、巨視的な次元のみならず、微視的にも広がるさまが照射されたのではないだろうか。
一方今回の討議では、「集団的」と「個人的」が重複したまま議論が進行したので、両者の対立や、徹底して「個人的」アイデンティティと結びつく言語の可能性が検討されてもと思われた。対話に徹する講義に戸惑い、うまく見解を伝えられない私の力不足である。それでも、問いを全員で深化させる過程には適度な緊張感と清々しさを覚え、勉強させて頂いた。

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文責:井出健太郎(東京大学大学院博士課程)

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