【報告】バリー・デイントン教授連続講演
2015年7月8日から12日にかけて、リヴァプール大学の哲学教授であるBarry Dainton氏を招いて、「意識と自己」というテーマで4回の連続講演会をUTCPの主催により開催した。
自己とは何か。これは由緒正しい伝統的な哲学的難問であるが、Dainton氏はずばり「自己とは統一された意識だ」と答える。そして意識が統一されているというのは「共意識」の関係にあること(意識されている諸々の事象が互いに一緒に経験されていること)だと言う。意識の統一には、ある一つの時点で諸々の事象が一緒に経験されているという「共時的な統一」と、隣接する時点の事象が一緒に経験されるということの連鎖を通じて遠く離れた時点の事象が結びつけられるという「通時的な統一」があるが、自己とはこの二つの面で統一された意識にほかならないというのである。
しかし、意識の統一によって自己を捉えようとするこのような見方には、ただちに生じる大きな疑問がある。それは睡眠によって意識の流れが中断し、意識の通時的な統一が失われたら、いったいどうなるのか、そのときには、睡眠前の自分と睡眠後の自分は別の自己になってしまうのかという問題である。この反直観的な帰結を避けるために、Dainton氏は少し修正を施して「自己とは統一された意識を生み出す能力だ」とする。この能力のほうは睡眠中も保持されるので、睡眠の前後で自己が変わることはないというわけである。しかし、この能力というのも、それを支える物理的基盤(たとえば脳)によってその同一性が保証されるのではなく、あくまでも同じ統一された意識を生み出すものとしてその同一性が保証されるので、自己の本質があくまでも意識の統一にあることには変わりはない。つまり、自己の本質はもっぱら意識の統一に依拠するのであって、それ以外のいかなるものにも依存しないのである。
これは自己を可能なかぎり単純なものにまで切り詰めた自己論だと言えよう。その単純さのゆえに、それは多くの疑問と反論を招くが、それらに丁寧に応答することによって、Dainton氏は単純なものの魅力をいかんなく示してくれた。また、それを通じて、これぞ哲学の醍醐味と言えるような妙味を存分に味わわせてくれた。貴重な哲学的体験を満喫できた連続講演会であった。
文責:信原幸弘(UTCP)
第1回 Subjects, Consciousness and Unity(7月8日)
初日のレクチャーでは、自己に関するデイントン自身の基本的立場の概説がなされた。その主張は、自己とは意識を生み出す能力に他ならない、と要約することができる。デイントンに言わせれば、記憶を失い、性格が変化し、思考できなくなったとしても、意識が保たれ続けるならば、すなわち経験の連続性が確保されるのであれば、私は私であり続ける。だが、我々は睡眠や麻酔によって意識を失ってしまうことがある。もし我々が意識そのものであるのだとしたら、我々は寝たらうっかり死んでしまうということになりかねない。だがそんなことはなかろう。そこでデイントンは、我々は意識そのものではなく、むしろそれを生み出す能力なのだと考えるのである。この意識を生み出す能力は「Cシステム」と呼ばれ、それは我々の場合は脳という物的基盤によって担われているが、なんらかの別の物的基盤によっても担われることができる可能性が開かれている。そしてこのCシステムをひとまとまりのものとして統一するのが、「共意識関係」という世界における最も原初的な経験間の関係である。
私は今回のレクチャーの特定質問者として、デイントンが強調する経験の連続性に関する質問を投げかけてみた。我々は時間的に幅のあるひとまとまりの経験、たとえばメロディの知覚、をすることができる。この現象学に基づいて、自己は時間的に連続した存在であることが強調される。だがしかし、たしかに我々健常なヒトの大人はメロディの知覚をすることができるが、それは我々がCシステムの他に記憶などの他の心の要素を持っているからだとは考えられまいか。もし意識を生み出す能力以外のあらゆる心の要素を剥ぎ取られたら、我々はまさにその一瞬その一瞬に囚われてしまう束の間の存在となり、メロディのような経験は不可能になってしまうのではないか。この疑問に対しては結局、私もデイントンも両者ともに自身の考えを繰り返すばかりであったが、これは根本的な直観のすれ違いが原因となっていることが後になって判明した。[この続きは末尾の「*第1回の報告の続き」を参照]
文責:林禅之
第2回 Temporal Experience: The Extensional Model and Its Rivals(7月9日)
ドレミのメロディを聞くとき、私たちは3つの音をバラバラに聞くのではなく、音の変化を聞く。私たちは変化や持続といった時間的現象を直接的に経験できるのだ。こうした時間経験を説明する有力なモデルが2つあり、経験そのものが客観的時間の中で占める幅の点で対立している。
「把持モデル 」(Retentional model)によると、経験は非常に短い時間幅を持つ。だが時間的変化は経験の内容の方で保たれる。たとえば、ある時点での経験は「過ぎ去ったドと今のレ」をその内容とし、次の時点での経験は「過ぎ去ったレと今のミ」を内容とするのだ。
他方Dainton氏の擁護する「延長モデル」(Extentional model)では、経験はより長い時間幅をもつ。ドの経験はドが、レの経験はレが鳴る間、ずっと延びている。この2つの経験が「共意識」という関係で結ばれ、ド→レの変化の経験が生まれるが、この経験はもちろんドとレが鳴る間ずっと延びている。
今回の講演では主に両モデルの比較が行われた。刺激の客観的時点とそれが経験される時点 がズレる場合があり(「ファイ現象」が有名)、こうした錯覚は刺激の時点と経験の時点が対応する「延長モデル」では説明しづらい。だが「延長モデル」には形而上学的利点がある。ごく荒っぽく言うと、このモデルではド→レの経験とレ→ミの経験は「重なって」おり、意識が段階から段階へ連続的に流れていくさまを的確に捉えている。
特定質問者であった私はまず、「共意識」がもたらすような複数の経験間の通時的統一ではなく、一つの経験がそれ自体でもつ通時的統一性についてDainton氏と議論した。Dainton氏は経験には最小限(恐らく数十ミリ秒)の通時的統一があると認めた。次に私は、ある時点での経験全体は、それ以上分割できない経験の「原子」から構成されているのか、それとも経験はどこまでも分割可能なのかという問いを提起した。Dainton氏はこれを興味深い論点と認め、原子に共感を示した。
時間経験はフッサールやジェームズも取り組んだ伝統的問題で、このためか参加者も数多く活発な議論がなされた。古くて新しいこの問題の奥深さを改めて感じさせる講義となった。
文責:片岡雅知
第3回 Selves as Experience Machines(7月11日)
今回の講演ではDainton氏の理論の核となる、自己と経験能力に関する議論が展開された。
Dainton氏は、意識の流れや自己の連続性を、物理的なものを基盤とした経験能力に訴える理論、すなわちCセオリーを提唱する。これによれば、自己とは経験主体であり、経験を生み出す能力の集合である。そして、共意識的な経験を生み出しうる複数の経験能力は同じ主体に属する。このように自己の連続性を経験能力同士の関係として捉えることで、2つの時間的に離れた意識の流れが共主体であることが説明され、いわゆる「橋渡し問題」が解決されるのである(例えば寝ている間に意識を失っていても、経験能力は失われていない。それゆえ自己は存続しているといえる)。
講演のなかでは、Cセオリーへの批判の一つである、単一の脳から複数の意識の流れが生み出されるケースが取り上げられた。これに対するDainton氏の応答に関して、来場者を交えた討論はその日いちばんの盛り上がりを見せた。
私は特定質問者として、Cセオリーと「最小限の主体」に関して質問を行った。Dainton氏は著作のなかで、「5分間のデカルト的悪魔の思考実験(5分の間、神が物的世界を消し去るが、その間も主体に意識があるよう介入するというケース)」を展開し、このような場合において「最小限の主体」が存在するという。最小限の主体は、私たちとは異なり物理的な経験能力の基盤を持たない。Dainton氏は、最小限の主体があり得ることを示すために、物理的基盤がなくても能力のシステムが存在するという主張をし、Cセオリーを修正する。さらに、私たちと現象学的に区別がつかないのであれば、最小限の主体も主体として認めて良いという。
私は、物理的基盤を前提していたCセオリーを修正してまで、なぜこのように非物理的自己の存在を擁護するのかという質問をぶつけた。これに対してDainton氏から得られた回答は次のようなものであった。私たちの意識は確かに物理的な基盤を持つが、それでも意識と物理的基盤の間の関係はニュートラルなものである。その意味で「最小限の主体」は形而上学的に可能なのである。
文責:勝亦佑磨
第4回 Subjects and Subjectivity(7月12日)
「私」とはなんだろうか。主観とはどのようなものか。Daintonが扱った最終日のテーマは、デカルトやロック、カントらを悩ませたこの哲学的難題の一形態である。
自己にまつわる現代の哲学的論争の中で、現象学者Zahaviが提唱した「最小限の自己」は一つの焦点となっている。 Daintonは彼のC理論の立場からこの説を批判した。Zahaviによれば最小限の自己とは、経験すべてにある非反省的な自己意識である。iPodから音楽を聴く経験や、河原の野球少年を見る経験など、経験は形式・内容ともに多様である。しかし、それはすべて「私」が経験する。経験の「私性」に対して直接的ではないにしろ私たちは気がついている。これは赤ん坊や動物、原始的な生物など、すべての生き物の経験に共通するものである。
Daintonによれば、確かに人間の典型的な経験はこのような構造を持っている。だが、様々なケースにおいて経験がこの種の自己への気づきを伴っているとは言えない。彼があげたケースは神経的な病理などの実例を含むものの、いつも通り豊富な想像上の事例をも含んでいた。では彼にとって自己とは何か。それはCシステムが生み出す「経験の流れ」である。
彼の批判の中でも特にZahaviらにとって「痛い」ポイントの一つだと思われる点があった。それは、自己意識は空間内での位置情報という高次の認知機能を必要とするだろうという論点である。もしそうであるならば、Zahaviらの主張とは異なり、原始的なものまで含めたすべての経験者が自己意識を持つとは言えなくなる。
特定質問では筆者は二つの質問をした。一つ目は、直接この日の講演に関係しているわけではないが、Daintonの単純な経験の概念に問題があるのではないかという点であり、二点目の質問は、自己意識を持たない単純なCシステムをなぜ「自己」と呼ばなければならないのかという点である。議論によってDaintonのC理論が持つ根本的な前提や目標が明らかになった。
また、総合討論では想像的な事例に訴えるという彼の基本的な方法論が問題となるなど、深い議論が展開された。最終日も参加者らにとって実り多い講演・議論であった。
文責:谷内洋介
*第1回の報告の続き
デイントン講演会初日に関して、もう少し述べておきたい。ジョン・ロック以降、自己とは本質的に心に他ならない、という考えが主流であり続けていた。しかし、心には記憶、性格、思考…といったさまざまな要素が含まれている。このうち何が失われたら私は私でなくなってしまうだろうか?たとえば、記憶喪失になってしまったらどうか。性格ががらりと変わってしまったらどうか。考える力を失ってしまったらどうか。あるいは、そのすべてが同時に起こったらどうか。デイントンに言わせれば、これら変化ないし喪失は私であり続けることにとって何の関係もない。どんな内容の経験であれ、とにかく経験が連続する可能性が担保されているならば、自己は生存し続ける。
デイントンの「C理論」は、ロック流の考えを極限まで押し進めた帰結だと言うことができるだろう。Cシステムの統一原理は共意識関係だとすでに述べた。意識には二つの統一性があるよう感じられる。我々の経験は時間を通じてなめらかに連続しているように見える。たとえばメロディを構成する時間的に近接した音トークン群は、あたかもひとまとまりのものとして一緒に経験されるように聴こえる。他方、ある一時点においても我々のさまざまな経験群は一緒に経験されるように見える。あなたが今見ているスクリーンの視覚経験は、どの任意の部分も別の部分と一緒に経験されているよう感じられるだろう。またこのスクリーンの視覚経験は、あなたが今聞いているさまざまなノイズの聴覚経験と一緒に経験されているよう感じられるだろう。これらの「一緒に経験されている」という部分を支えるのが共意識関係に他ならない。
じつは私の特定質問は全部で3つ用意してあり、ここでは第二・第三の質問について触れたい。第二の質問はデイントンの説(C理論)の帰結に関するものであった。この世界にはCシステムが多数あり、おそらくそれはヒトに限らないだろう。ヒト以外の動物には意識を持つものが多数いるだろうし、あるいは宇宙のどこかに別の意識的存在者がいるのかもしれない。もし我々の本質がCシステムであるのだとしたら、我々がヒトとして生まれてきたことは付帯的事実であり、もしかすると私は食肉になる鶏として生まれてきたことがありえたのかもしれない。このような見解は、我々の倫理観になんらかの影響を与えうるのだろうか。たとえば我々は別のヒト個体を苦しませることは悪いことだと感じる。それはまさに、もし自分がその苦しんでいる人であったとしたらどうかという想像がもとになっているよう私には思われる。この想像を動物に対しても適用できるだろうか。これが第二の質問であった。これに対しては、我々は意識を生み出す能力が保たれる限り、鶏にでもなんにでも変身しうるだろうという答えを得たが、そもそも最初から鶏として存在し始めることができるかについては回答を得られなかった。だが、生の途中で鶏に変化することと、生の最初から鶏として生まれることの間に大きな形而上学的違いがあるのだろうかという指摘を夕食会の席で他の参加者からいただいた。
第三の質問は次のようなアーギュメントとして示された。この世界には多数のCシステムがある。そのうち1つだけが私のCシステムである。Cシステムは単に意識を生み出す能力であるから、それは無特徴である。もしそうならば、Cシステムに内在する特徴のみによってはどのCシステムが私のCシステムであるか決定することはできない。もしそうならば、我々はCシステムではない。Cシステムと、何らかの余計な要素の組み合わせが我々である。時間的制約もあり、この問いに対しては講演中一言も触れられず、一瞬少しがっかりとしたが、帰り道のエレベータでデイントンに話しかけられ、この問題は考慮せねばならないし、類似したことを考えている哲学者(ジェフリー・マデル)が今後の講演で言及されるだろうと伝えられた。
最後に、講演の内容と直接の関係はないが、今回の連続講演で感じたことを一言述べたい。ふだん我々が取り組んでいるタイプの哲学(分析哲学)は、論理的な正確さを重視して結論にいたることを目指すため、しばしば文献を読んでいて冷徹で無味乾燥だと感じてしまうことがある。しかし、このように当の哲学者を招聘して毎日講演を聞き直接質問をぶつけてみると、生き生きと血の通った議論ができて心から楽しいと感じられる。そして、この楽しさは議論する人々の間で共有され、それこそが哲学における(当然、国をも越境する)人的ネットワークの基盤になるものだと私は思う。単に英語で議論する機会を超えた、このような人的交流が今後も脈々と続いていくといいと思われる。(ところで、講演会終了後、C理論の統一原理である共意識関係についてときおり考えていたが、私にはこれが自己にとって最も重要な統一原理なのかわからなくなってきている。とりわけCシステムの共時的統一については、ひとつのカウンターアーギュメントを思いつくことができた。これがうまくいくかどうか、デイントンに直接チャレンジしてみようと思う。)
文責:林禅之