梶谷真司「邂逅の記録76:P4T(Philosophy for Teachers)研究会決起大会「哲学は部活だぁ!」(1) 学校における哲学の場」
7月15日(水)の夜7時から行われた「哲学は部活だぁ!」という企画は、5月にエストニアで開催された国際哲学オリンピック(IPO:高校生のための哲学エッセイコンテスト)から帰国して決断したものだ。まずはその経緯について説明しておこう。
IPOでは当然のことながら、お互いの国の哲学教育の現状について話題になる。そこで「日本での哲学教育はどうなってる?」と聞かれるわけだが、そのたびに私は、「日本には哲学教育はない」と答えていた。確かに「倫理」という科目はある。けれどもこれは、「哲学」ではない。学校で教えられている「倫理」は、主に倫理に関わる過去の思想家の概念や著作、様々な立場の名称とその簡単な説明を覚えるだけだ。最近では教科書もある程度は考えさせる内容になっており、ディスカッションを取り入れている場合もあるようだが、基本的には暗記科目である。一番の障害は何と言っても大学入試であり、基本的には正解を教える科目であって、「歴史」や「地理」などと比べて、教科としての中身は違っても、やっていることは、本質的に変わりはない。だから残念ながら、「哲学教育はない」と答えるしかない。
ならば「哲学」の教育とはどんなものなのか?これについても、正解があるわけではない。しかし今日、世界的な動きとしては、学校教育(とりわけ初等中等教育)における「哲学」とは、批判的思考や論理的思考など、「考えること」そのものの教育を指しており、日本でもそれは徐々に共有されてきている。でもこのような意味での「哲学」をどうすれば学校の中に取り入れられるのか。
一番まっとうだと思われるのは、制度的に正式なカリキュラムの中で教えるというやり方だろう。これは諸外国での実践例もあり、日本哲学会をはじめとして、公の組織が哲学の社会的意義を訴える際には、常々主張してきたところである。けれども、この点については、日本には様々な障害があるし、しかも私自身、教科化については、個人的にあまり賛成できない。
まず、どういう科目として導入するのかという問題がある。日本の哲学界は、現実的な方策として、シティズンシップ教育や公民や道徳の中に位置づけようともしている。だが、それらが教科になったら、「考える力」を教える科目としての「哲学」が実現するかというと、大学入試がある以上、結局は倫理と同じで、中身は哲学ではなくなる。せいぜい専門的な知見を教材の中に盛り込む程度の話で終わるだろう。
もちろん「考える力」そのものを育てようという動きもある。そこでは哲学が重要な役割を果たす余地はあろう。問題はどの科目でやるかだ。社会科でも理科でも可能だろうが、個人的には国語でやるべきだと考えている。「考えること」は何より言語能力だからである。だが、これもまた実際にはなかなか難しいだろう。国語という教科には、これまた大学入試との関連で、やらねばならないことが山ほどあるからだ。
だがそれ以前に問題なのは、「考える力」の育成が、そもそも今の政府(といってもずいぶん前からの傾向だが)の方針とは相いれない、ということだ。愛国心を育てるために道徳や日本史を必修にしようとする姿勢からも分かるように、政府のほうは、どんなくだらない卑劣な政治をやっても国を愛し社会秩序を維持するような「考えない人」を育てたいだけある。そういう世の中で、社会のあり方や世間の価値観を根本的に問い直しかねない思考力など、政府にとっては危険極まりない。「哲学」がそんなことを教えようとするのであれば、それは一番いらない科目である。
また、「考える力」を育てる授業が何らかの形でできるとしても、現場の教員にも受け入れがたい面がある。時間的な制約、学習指導要領の縛り、評価の方法など、既存の授業の枠に合わすのは至難の業だ。私の知り合いには、学校で哲学を教えている人もいるが、みんな大変な苦労と工夫を重ねている。通常の科目ではなく、総合学習や臨時のイベントとしてなら、かなり自由にやれるが、いずれにせよ、彼らのような授業は、幸運な例外であって、一般的なモデルにはならない。そこで、哲学を専門に勉強した人を教員にしようとか、教員に対して哲学者たちが研修を行うよう体制を整備しようという意見も出てきたりするが、これは現場の先生が歓迎できる話ではまったくないだろう。
そしてもう一つ、決定的な問題がある。学校の教科になってしまうと、自ずとテストのための勉強と化し、やらなきゃいけないこと、やらされることになる。その結果、多くの子供たちが嫌いになる。そうすると、現在、教科でないがゆえに好きでいてくれる人が離れていく恐れがある。これは非常にマズい。
そもそも哲学の世界に足を踏み入れた者は、必要だからそうしたのか。人から言われ、与えられたから学んだのか。そうではないはずだ。不必要なのに、不必要だからこそ、学んだのではなかったか。哲学をしたかった、あるいは、せずにはいられなかったから、つまりどれほどつらく、苦しくても、結局は「楽しい!」からこの世界に入ったのではないか?
別に哲学を専門的にしなくてもいい(当たり前だ)。よく分からなくてもいい(当たり前だ)。でも、哲学って大事なんだ、哲学って面白いんだ、という場があったらいい。全部の学校でなくていい(当たり前だ)。やらされるのでははく、やりたい奴がやる、そういう場が学校にできないか?――よし、部活だ! 部活でやればいいんだ!
ただし、「やりたい奴がやればいい!」と言っても、哲学は「趣味」でやればいいということではない。だったら、学校の中でなくても、巷の哲学カフェに行くなり、自分で本を買って読むなり、今だったら、ネットで仲間を作ればいい。
私自身は、哲学を教科として学校に導入するのは賛成しないが、哲学はすべての人――赤ん坊はともかく、老若男女、本当にありとあらゆる人――にとって必要だと思っている。教育は哲学を軸とすべきだと思っているし、すべての研究は哲学的でなければならない、と学生たちに教えている。それどころか、すべての人の人生そのものが哲学的になればいいと思っている(私は情熱的でも楽観的でもないが、こういう大言壮語は本気で言える人間である)。
哲学がそれほど重要なものならば、そのきっかけは「学校」という公的な場にあったほうがいいと思うのである。だから「部活」なのだ。部活でなくても、同好会でもいい。学校という制度の中にありながら、教科の枠の外に、もっと自由で自発的な活動の機会ができればいい。学校の中で哲学がとるべき形としては、それが現実的でもあり、望ましいと思うのだ。
(続く)
文責 梶谷真司(UTCP)