【報告】2015年度東京大学―ハワイ大学合同比較哲学夏季インスティテュート準備会(3)
2015年8月、東京大学はハワイ大学と共同で比較哲学夏季インスティテュートを開催します。今回は、本インスティテュートに向けた準備会の第3回目の模様を報告します。課題テクストはYoshito Hakeda “The Meaning of Sounds, Word, and Reality”で、それをもとに議論が行われました。
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サマーセミナーにむけて6月25日(木)に行われた勉強会では、空海の『声字実相義』を、Yoshito S. Hakeda氏による英語訳 “The Meaning of Sounds, Word, and Reality” を用いて検討したうえで、参加者全員で議論を行った。前回と今回の二回を通じて、決して理解の容易ではない空海の言語論の輪郭が少しずつ浮び上がってきたように思う。
最初に二つの観点から、テクストの議論を整理した。第一に、「声」「字」といった言語に関する概念の内容についてである。そこでは、まず空海にとって「言語」は人間の自然言語に限定されるのではなく、各々の「文」(pattern)を通じて他と自らを差異化する諸法のあり方自体をふくむものであることが確認された。こうして、そこでコスモスが分節化される「文-字」なる差異化の運動を見出すことで空海は、諸法の自性を脱構築する仏教の空性(emptiness)や縁起生(dependent co-arising)の哲学を言語論的に表現しなおしているとも考えられる。第二に、こうした言語論に基づく密教的想像力。なかでも、諸法が分節化されるプロセスが、いかに法爾による説法(「声」)の展開として表現されているかについて参加者全員で理解を試みた。こうした想像力にしたがえば、言語は諸法への執着を引き起こすと同時に、その空性の理解へと通じるものでもあり、迷妄と救済の両側面に関わっている。この両義性が、テクストでは「妄語」と「真言」、広義と狭義の「真言」の区別をもたらしている点もまた指摘された。
以上の整理を踏まえて、参加者全員で英語を用いて討論を行った。いくつもの興味深い質問が提起されたが、特に以下のものを挙げておきたい。まず、こうした空海の言語論と儒教(とりわけ荀子)のそれがいかに異なるのか、特にそれらがもたらす政治的想像力の観点から提起された。討論では、「名」と「物」の一致を志向する儒教の正名論に対して、空海は言語の多義性(polysemy)を肯定的に捉えており、それによって、諸教の相補性を可能にする原理として密教を位置づけていることが検討された。さらに、融通無碍な密教の想像力が、仏教的な実践や制度の正当性といかに関わるのか(関わりえないか)という困難な問いも提出され、参加者に応答を要請したのであった。
空海の言語論の理解は一筋縄では行かないことが改めて痛感されたが、しかし同時に、各自が討論を通じて抱いたこれらの問いをサマーセミナーの場を通じてさらに深めることが期されるだろう。
(文責:井出健太郎)