梶谷真司「邂逅の記録74:第23回国際哲学オリンピック in エストニア(2)」
国際哲学オリンピックは、各国から高校生、教員いずれも2人まで参加することができる(ただし主催国は10人まで選手を出せる)。競技は母語以外の英独仏西のいずれかの言語で、4時間かけてコンピューターでエッセイを書く。語学辞書のみ使うことが許されている。哲学書・思想書からの引用文が上記4つの言語で課題文として出され、その中から一つ選んで、その内容に関連するテーマで自由に書くことになっている。
今回の課題文は以下の4つであった。
1)「哲学的文学に反対する人は、いみじくも、小説や演劇や詩の意味は、抽象
的な概念に翻訳することはできない。さもなければ、もっと直接的な表現でもっ
と効率的に明確に表現できる考えを、フィクションの殻で覆わないといけないの
か。小説が正当化されるのは、他の形には変換できないものを伝えている場合だ
けである。哲学者や随筆家は、自分の経験を知的に再構成したものを読者に伝え
ようとするが、小説家はこの経験を、あらゆる説明に先立って現れるとおりに、
想像力のレベルで再構成しているだと言う。」――シモーヌ・ド・ボーヴォワー
ル
2)生と死、存続と消滅、成功と失敗、貧困と富裕、優越と劣等、不名誉と名誉、
空腹と渇き、寒さと暑さ――これらはみな物事の変化であり、運命の道筋である。
・・・したがってそのせいで私たちの調和を乱されるには及ばない。」――荘子
3)思考は外界にある事物でもなければ[心の中の]表象でもない。第三の領域
というのを認めるべきである。ここに属するもの五官によって知覚できないとい
う点で表象と同じであるが、意識の内実を担うような実体を必要としないという
点で事物と同じである。」――ゴットロープ・フレーゲ
4)プラトン以来、哲学者や神学者の中には、人間の肉体は魂の牢獄であると主
張する人たちがいた。近年、ミッシェル・フーコーは、魂こそ肉体の牢獄である
と言った。――この相反する立場を支持するのに、どんな議論ができるか考察し
なさい。
エッセイの審査は、各国から来た教員が全員で当たる。名前や国が分からない
ように通し番号がつけられ、教員が自分の国の選手のエッセイを査読しないよう
に配慮される。4人一組のグループに5つのエッセイが割り当てられ、まずはそれ
ぞれで読んで、その後、エッセイごとにコメントをする。これは、あくまで互い
の意見を参考にして、偏った評価でないかどうか確認するために行っており、最
終的には各自の判断で評点をつけ、同じ点数をつける必要はない。ただし、あま
りに評価が分かれている者に関しては、後でさらにもう一人査読者が読むことに
なっている。
評価は「課題文との関連性」、「課題文の哲学的理解」、「議論の説得力」、
「議論の一貫性」、「オリジナリティ」の5つの項目に従って行われ、10点満点、
0.5刻みで採点する。文法的なミスや語法の間違いなどはとくに減点対象にはな
らず、あくまでこれらの項目に関して実質的な出来によって判断する。もちろん
どの項目に関しても、厳密な基準があるわけではない。だから、高校生たちがエ
ッセイを書いている間、教員たちは、評価の基準に関して毎回議論し、基本的な
方針は統一するようにしている。教員の好みや資質、経験によって左右される部
分もあろうが、全体としては十分に公平で正確な評価になっていると思われる。
メダリストがどんなエッセイを書いたかはまだ分からないが、さすがに国際オ
リンピックと呼ばれるだけあって、世界一を争うレベルともなると、毎年研究者
顔負けのエッセイが出てくる。
文責:梶谷真司(UTCP)