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【報告】国際シンポジウム「崇高と不気味なもの」(2)

2015.04.01 星野太, 西山雄二, 栗脇永翔

【報告】国際シンポジウム「崇高と不気味なもの」(1)から続く。

「センター」とは何か? ここではしばしば語られる「点・線・面」の関係を少しずらし、例えば「点・線・円」の関係を考えてみよう。ふたつの点を打つとそこには一本の線が生まれる。さらに、どちらかの点を固定した上でこの線をぐるりと回せばひとつの円が現われるだろう。だから一見すると円に見えるものも本当はただの点でしかないのかもしれない。そして「センター」とは本質的には円、あるいは球の中心点でしかないはずなのである。点が打たれる位置は絶えず移動し続けるのであるし、それに伴い、円も、あるいは球も「変身」し続けることを運命づけられているのかもしれない。

2015年3月、報告者はUTCP、ソフィア文化理論セミナー(SLS)、ソフィア大学文化センター――それゆえ、ここには少なくともふたつの「センター」が存在している――によって企画された国際フォーラム「崇高と不気味なもの」に参加した。UTCPとソフィアの交流は2013年の国際シンポジウム「変身とカタストロフィ」によってすでに開始されているが、ふたつの点、ふたつのセンターによって組織されるふたつの交流は、にもかかわらず、少し異なる性格を持つものであったと想像する。東京の組織者を比較すると、前回の中心がこの春東京大学を去った小林康夫先生であったのに対し、今回の中心は30代前半の星野太さんであった。それに伴い、フォーラムは若手研究者の交流という性格が強く、博士課程の学生である報告者も臆せず参加することが出来た。

国際フォーラムではそれぞれの大学から提案された概念「崇高」と「不気味なもの」をめぐる研究発表だけではなく、カントとフロイトのテクストに関する読書会の時間も準備された。事前に用意されたペーパーを読む研究発表だけでなく、インタラクティヴに、その場で意見を交換できる読書会の時間があったことはこのフォーラム全体の深みを増すことに役立っていたように思う。こうした複合的な形式は国際的な学術交流のひとつの「モデル」になるものであろう。

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3月4日に行われた報告者自身の発表では、研究するサルトルとソフィア出身の理論家クリステヴァの思想を比較することを試みた。これまであまり語られてこなかったふたりの思想家の関係に関しては以前より関心を抱き、長期的に調査を進めてきたが、その最初の発表を他ならぬソフィアの地で出来たことは幸福なことであった。クリステヴァの著作に現われるサルトルへの言及を整理した後、90年代に行われたサルトルに関する講義を紹介し、「アブジェクシオン」と「トゥルニケ」というふたつのキー・コンセプトを比較した上で、「ポスト実存主義者」としてのクリステヴァのイメージを提示した発表の後には、ソフィア大学のダリン・テネフ氏よりフランスに旅立つ前のクリステヴァが実存主義に影響を受けるグループに属していたという情報を教えてもらった。ソフィア時代のクリステヴァに関しては資料が少なく、ほとんど情報を得られていなかったため、この場を借りてテネフ氏に感謝の気持ちを伝えたい。(空き時間にテネフ氏が連れて行ってくれたボヤナ教会も非常に忘れがたいものであった。)

ソフィア大学側の企画者であったカメリア・スパソヴァ氏、UTCPとも関係が深いボヤン・マンチェフ氏を始め、我々を「歓待」してくれたソフィアのメンバーには改めて感謝の気持ちを伝えたい。ふたつの点=センターがまた異なる円を描き続けることを願って。

栗脇永翔(UTCP・RA研究員)

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3月2日から4日にかけて、ブルガリアのソフィア大学で行われたフォーラム「崇高と不気味なもの」に参加させていただいた。私にとってはこれが海外で発表をする初めての経験であり、また日本国内での活動を含めても外国語で発表をする初めての経験であった。

今回のフォーラム開催に至る様々な契機を作ったブルガリアと日本の研究者の交流は、遠因や間接的なものも含めれば、ボヤン・マンチェフ氏の来日講演、西山雄二氏とマンチェフ氏の映画上映会・講演会、小林康夫氏らがブルガリアを訪れたワークショップ「変身とカタストロフィ」、そこで交わされ、今回の直接的な契機となった星野太氏とカメリア・スパソヴァ氏の会話、ダリン・テネフ氏の日本留学と日本の研究者たちとの交流など、様々あり、そうした交流の積み重ねによって今回のフォーラムも実現した。私はそこにいわば乗っかった形になるが、フォーラムに参加するなかで、こうした知的交流を積み重ねることの大切さと意義に改めて気付かされ、またそこに与れることの有り難さと、今後のさらなる発展に貢献することの責任を強く感じた。

フォーラムでは、現代の美学をマッピングした星野氏の基調講演に始まり、その後二日間に渡り、全体でのディスカッションと数名の発表が交互に行われた。こうしたプログラムの組み方が功を奏し、多様なトピックに渡って自由な議論が行われたように思う。カントやフロイトなどの古典的理論を踏まえつつ、文学作品や映像資料に依拠して様々な意見も提出され、同日、前日に行われた個人の発表内容にも立ち返ることで、フォーラム全体が豊かな意見交換の場になっていたように感じられた。

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私の発表は、デリダのハイデガー、ニーチェ読解を検討し、それらの読解が、歴史を力の差異と交換として描き出すものであったことを提示するものであった。ハイデガーはニーチェを生物学主義的読解から救い出すため、また現存在が動物一般について立てる命題を動物学から区別するため、伝統的形而上学に舞い戻らざるを得ず、ある種の差異を見逃してしまう。あることの可能性の根拠づけは他のことの不可能性を招き寄せる。ニーチェにおいてこうした交換が主題化されるのは〈力への意志〉の思想であり、デリダはこれらのことを検討する中で、歴史を力の差異と交換として思考していたのではないか。初めての英語での海外発表であったため、戸惑うことも多く、質問に十分に答えることができなかったが、今後の多くの課題をいただいた貴重な経験であった。

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また、ぜひ書き留めておきたいことは、ソフィア大学の教員、学生を含めた多くの方々の、そしてその友人たちの、とても温かく親切な歓待である。深夜の空港での歓迎、一緒に街を回って案内していただいたこと、ブルガリアの伝統的な飾り物や、大学で作っている文芸紙、シンポジウムの記録の出版物などを沢山プレゼントしていただいたこと、何度もディナーに誘っていただき、発表の合間には声をかけていただき、交流の機会を沢山設けていただいたこと、みんなで小さなパーティを開いていただいたことなど、感謝してもしきれない。そしてこれらのすべての歓待を教員と学生が一緒に行ってくれたことには、非常に驚いた。最後のディナーのテーブルでエンヨ・スタヤノフ氏に、そうした驚きを伝えた。返答の中で聞かれた、われわれには対話の「オープンネス」がある、という言葉を覚えている。この「オープンネス」が、ソフィア大学の教員と学生を含めた豊かな知的交流を作り上げ、また日本の研究者たちへの温かい歓待を可能にしているものかもしれないと思った。

島田貴史(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

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