Blog / ブログ

 

【報告】UTCPシンポジウム「新たな普遍性をもとめて――小林康夫との対話」

2015.03.23 小林康夫, 佐藤朋子, 西山達也, 岩川ありさ, デンニッツァ・ガブラコヴァ, 橋本悟, 平倉圭, 星野太, 國分功一郎, 森元庸介, 森田團, 西山雄二, 大橋完太郎, 大池惣太郎, 王前

去る2015年1月24日、UTCPシンポジウム「新たな普遍性をもとめて――小林康夫との対話」が開催されました。本シンポジウムではかつてUTCPに在籍した若手・中堅研究者が登壇し、UTCPの小林康夫氏と対話をいたしました。以下において、対話役を務めた方からの報告を掲載いたします。

第1部 超・実存から/への思考

シンポジウムの第一セッション「超・実存から/への思考」では、まず小林先生から登壇者・来場者に向け、「いま、われわれが考えるべき実存論、存在論はどのようなものか」という問いが投げかけられた。この問いの前提となる大きなプロブレマティックは、小林先生が近著『「知の技法」入門』で提起された、「人間」の再定義という問題である。小林先生は同著の中で、20世紀のフランス中心の現代哲学を「実存→構造→ディコンストラクション」という段階で捉え返しつつ、現在の哲学的思考が「ポスト・ディコンストラクション」という新たな段階から「人間」を思考するべきときに至っているのではないかと述べられている。その際、何らかの形で再び「実存」という概念が――20世紀の現象学‐実存主義のフロントとは別のレベルで――問題となるのではないか、というのが小林先生の問いの視点であった。本セッションの目的は、この問いへの応答として、新たな実存論のための可能な切り口を、それへの批判も含め模索することであり、来るべき思考の「入口」を模索する対話の場が開かれることとなった。

Kobayashi0B0G2015_1.JPG

最初の応答者として登壇された國分功一郎氏は、昨年キルケゴールをめぐるシンポジウムを開催されるなど(『現代思想』2014年2月号参照)、「実存」の捉え返しにアクチュアルに着手されている。國分氏が当日提案されたのは、「本質」/「実存」という伝来の概念構成に対して、「人間本性Humain nature」と「人間運命Humain Fate」という新たな概念の配置を作ること、それによって「実存」を具体的な存在において捉える方法を考えることであった。國分氏はこの「運命」という概念をルソー的「自然人」との対照から導き出す。ルソーの「自然人」とは「人間本性」のままを生きていると仮設された人間表象であるが、この人間像には私たち誰もが抱く「人と一緒に居たい」という基礎的感情が見られないと國分氏は指摘する。そのため、「人間本性」によっては説明できないが、かといって人の具体的生において絶対に避けられないものを考察するためのカテゴリーとして、「人間運命」が仮設されることになる。國分氏が「人間運命」として具体的に注目するのは、小児科医熊谷晋一郎氏との「当事者研究」に関する共同調査から浮かび上がった、「記憶=傷」の問題である。「当事者研究」のプログラムには、何らかの精神的疾患を抱える人が自分で自分の経験を言語化することにより自己治療を行うメソッドが含まれているが、その際、一人反省的に自己分析するのではなく、他者に向けて自己研究の成果を語ることが重要な治療効果をもたらすという。國分氏は、綾屋紗月さんの「記憶は傷である」というテーゼを取り上げつつ、仮に「記憶」を、人が時間の中で刻々と負っていく微細な「傷」として捉えることができるとすれば、人は自分に残った「傷」の修復という――歴史を持たない「自然人」には無関係な――仕事を余儀なくされている、と述べる。その上で、「傷」の修復作業に、他者に向けて<語る>というモメントが必要であることに注目するなら、「人と一緒に居たい」という想いは、傷む記憶の<意味化>の作業を手伝ってくれる人が欲しいという感情とみなしうる、と國分氏は説明された。実存/本質/運命という概念構成によって実存の問いに具体的視点を持ち込む可能性を強調されたのち、最後に國分氏はそうした実践のフィールドの一つとして、「医療」の現場を挙げられ、哲学に現代の医学的知見を活かし、同時に医学に哲学を持ち込むことの重要性を訴えられた。

Kobayashi0B0G2015_2.JPG

第二の応答者として登壇した大池惣太郎は、今考えるべき実存論という問いに対して、まずは「実存」が言葉を操る主体の位置から極めて遠くにあるという事実を正確に捉え直すことから出発する必要があると強調した。大池はまず「実存」の位相を理解するための原的光景として、小林先生の著書『歴史のディコンストラクション』で取り上げられている「モーセの召命」の場面を参照した。モーセはイスラエルの民を導けという神からの召命に対して、「私は誰ですか」という問いで応答する。大池は、自己原因であり自己の本質を握っているものに対して、「答え」を得るためではない問いを発し得ることに、「実存」の原的イメージがあると述べた。そこで同時に注目されたのは、モーセに対する神の応答にも実存の認識を可能にする基本構造があるという点である。神はモーセに「いついかなる時も私が共にいるからだ」と答えており、小林先生は前掲書でそれを「神の憑在」と呼ばれている。大池は、この「神の憑在」がデカルトの<コギト>に伴う神の存在証明と同型であると指摘した上で、「神の憑在」と「実存の同一性」が同時に成立することに「実存」の基本構造があると述べる。大池によれば、20世紀の実存哲学はこの構造を人間の側に内包することによって展開されたのであり、それによって「意識の明証」は残り続けたが、「実存の同一性」という経験的に構成も確証も不可能なものをめぐる認識が消滅した。それゆえ、サルトルのように自分の内部からその同一性を引き受ける思想が出ざるを得なかったが、それは「実存」を「人間」一般の可能性の中に含めていく過程でしかなく、「実存一般」という内容のない背理をめぐる言説が20世紀を通じて積み上げられることになった、と大池は説明した。この過程に極めて鋭敏であった思想家の切り口の一つとして、大池は最後に、リオタールのマルロー論に出てくる「金切り声stridence」という形象を紹介した。人は録音した自分の声に違和感を抱くものだが、それは発声器官の振動を自分の内部から聞き取るからである。しかし、自分の声の特異性は単に他者に聞き取られないだけでなく、通常話している自己にもそのものとして聞き取られることはない。自己の声の特異性を聞くためには、「喉で聞く」ような認識――すなわち、自己の能動性の先端でそれが生み出す同一性をひび割れさせているような認識――が必要であり、そこではじめて実存は問題化しえると大池は締めくくった。

続いて、コメンテーターとして登壇されていた森元庸介氏、佐藤朋子氏、西山達也氏の三人から、「実存」を読み直すためのそれぞれの切り口が提示された。

Kobayashi0B0G2015_3.JPG

森元氏はまず、ある18世紀の辞書による「実存」の定義――「あまりにも自明であるため、なんであるか言うに及ばないもの」――を紹介しつつ、実存が思考において問題となることは、この明証性が破られることと不即不離である、と述べられた。さらに森元氏は、「人間とは<何か?>である」というピエール・ルジャンドルの言葉を参照し、実存を<問い>の様態そのものとして考察する。そのイラストレーションとして提示されたのが、パゾリーニの映画『オイディプス王』における「スフィンクス」との対話の場面である。パゾリニーニ版の「スフィンクス」の問いは、「人間」をもって答える有名な問いの代わりに、「お前の中に謎が一つある、その謎はどんな謎か」という問いを投げかける。答えよりも<問い>そのものの存在へとオイディプスの関心を向けさせようとするこの問いに対して、映画のオイディプスは「知りたくもない」と答える。森元氏はそこに、<問い>を持つこと、解きようのないものを抱えることへの拒否の身振りがあると指摘し、現代世界に猖獗する野蛮の根本にはこの根本的な拒否があるのではないかと述べた。さらに森元氏は、「人間」を可能にし、規定しもしている「問いの構造」を破綻させることなく、あくまで<問い>の反復に希望を求めること、新しい人間の像を得ようとする拙速な答えや変化への要求を警戒しつつ、「問いの猶予の時間」を確保することにおいて、「実存」をめぐる一つの可能な態度がある、と強調された。

Kobayashi0B0G2015_4.JPG

続いて、佐藤朋子氏は、新たな実存論が「構造主義を経た実存論」であることの必要性を喚起された。その必要を理解する上で最も顕著な例として問題にされたのは、セクシャリティとファンタスムの関係である。佐藤氏は、小林先生が『<知の技法>入門』で現代のセクシャリティはもはや単純な男性/女性という形式のもとで思考しえないと論じられていることを参照した上で、実存に深く関わるセクシャリティの問題において、構造的思考は特に必要不可欠であると説明した。佐藤氏によれば、たとえばフランスの哲学者・精神分析家ジャン・ラプランシュは窃視者のオーガズムについて、そこでは眼が性感帯として機能している訳ではなく、ファンタスムが介在してはじめて窃視行為がオーガズムと結ばれると論じている。ファンタスムはいわば「無意識のドラマの脚本」であり、それは窃視している当人を巻き込む形で構造化されている。セクシュアリティを考えるには、性的主体を構造化している社会的行為の規定を十分に考察しなければならない、それゆえに、実存論は構造主義的視点を潜り抜けている必要がある、と佐藤氏は強調された。加えて、議論の余白として、佐藤氏は哲学における精神分析に関する言説の中に、セクシュアリティの問題を論じる際に現れる「話しづらさ」という契機が欠けている点を指摘する。フロイトの議論は実際に同時代にあってスキャンダラスな言説として受け取られたのであり、セクシュアリティを論じることの中には、論者が議論から完全に独立した位置を保てない側面がある。構造的視点はむしろ論者の実存を言説に巻き込むものであり、現代哲学の議論にはそうしたプラクティカルな摩擦がしばしば欠落している、と佐藤氏は注意喚起された。

Kobayashi0B0G2015_7.JPG

最後に西山達也氏は、小林先生の『記憶と根源 カフカ・ベンヤミン・ハイデッガー』に収められたハイデッガーの「問いの構造」をめぐる分析を紹介することで、いわば発問者の問いに発問者自身の解で応じられた。西山氏は、ハイデッガーにおいて「現存在」(実存)は定義において「問うことができる存在」であるということを確認したのち、会場の黒板に『存在と時間』における「問いの構造」の三項――問いかけられるもの」(現存在)、「問われるもの」(現存在の存在)、「問い求められるもの」(現存在の存在の意味)を板書した。それにより西山氏が強調したのは「問いは必ず構造を持つ」こと、すなわち森元氏の発表とも通じるが、「問い」の可能性がすでに実存論的な構造と不可分であるということである。その上で西山氏が指摘したのは、小林先生が前掲書で30年前すでにハイデッガーの「問いの構造」における「問い求められるものErfragtes」という「解釈」の契機に着目し、カフカ・ベンヤミン的な「物語」の構造の側からその読み替えを行われていたことである。西山氏は、「物語」の構造を「実存」の中に組み込むことが『起源と根源』の企図にほかならず、ハイデッガーの強力な実存論枠組みの細部から、ベンヤミン=カフカ的実存の別のモデルへと突き抜けようとする姿勢が小林実存論の一貫した姿勢である、と述べた。その上で西山氏は、自分はあくまで「ヘルメネイア」(解釈)の構造の側からハイデッガー的実存論の読み直しを続けていくと述べ、最後に、もしハイデッガーが言うように現存在(実存)が物語を語らないとすれば、「問いに答える実存」は果たして「物語」を生むのか、という未決の問いを発して応答を締めくくられた。

Kobayashi0B0G2015_6.JPG

以上の議論を受けた小林先生から続けて全体へ応答が行われ、様々な論点が示された。そのすべてをここに書き留めることは到底かなわないので、いくつかハイライトだけ書き留めさせていただく。小林先生の質疑の一つとして、國分氏に対し、「傷」や「運命」は再び特異なものをめぐる一般化された議論に還元されるのではないか、「わたしは傷を持っている」ということがその人の存在そのものに触れるような次元をいかに確保するのかという質問があった。それに対して國分氏は、重要なのは一般性の内部から特異なものにアプローチすることを可能にする概念を作ることである、と応じられた。また、小林先生ご自身からは、一つのワーク・イン・プログレスの切り口として、『マハーバーラタ』における「ダルマ」――<存在=法>――の観点に想を得た、個々の実存を「特異な法」として捉えるという視点が提示された。ディスカッションの全体を通じて、小林先生が特に強調されていたのは、國分氏の現在進行中の研究と通じ合うが、新たな実存論を巡る思考において、具体的な当事者と一緒に何かを始めることは決定的に重要である、という点であった。スタンダードな人間モデル(セクシュアリティも含め)ではなく、基準に還元不可能な「ノン・スタンダード(「超‐準的」)」な個との関わりにおいて、別の実存主義が探されていく必要がある、と小林先生は強調された。

また会場からも様々なリアクションがあったが、報告者にとって中でも鮮鋭な問題点を含むと思われた質疑に、会場で高田康成先生から國分・小林両氏に向かって無造作に投げかけられた、「自然主義を狙っているのか?」という問いがあった。これは言い替えるなら、実存は発生論的な視点と両立可能かという問題だが、今日の哲学が20世紀に飛躍的に積み上げられた高度な言語論的問題構成からむしろ離脱傾向にあり、むしろ現実主義的な科学の言説との接点を模索していることを考えるなら、この問いは重要な問題性をはらんでいると思われる。この問いに対し、國分氏はあくまで自然主義から思考するという立場を取っていきたいと応じられ、また小林先生は「ビックヒストリー」という概念から、実存主義と自然主義を総合する観点も可能ではないかと応答された。

全体を振り返り、多くの触発に満ちた内容豊かな討議だった。報告者にとって印象的だったのは、「実存」という言葉が、予想に反して驚くほど多元的、複数的な射程で語られたことである。多くの論者が同じ用語や概念において議論を展開していながら、各人に内在するイメージや概念的布置が決して単一ではないことが対話を通じて浮かび上がったと思われる。前世紀に作られた実存論や存在論に今後刷新が起こり得るとすれば、それは各議論に内在する差異を、いわば「係争différend」にまで高めていくことを通じてのみであろう。そして、複数の議論のいずれにおいても一つ共通する点があるとすれば、それは「実存」の問いが、「何を」の手前で、<考える>ことそのものの場をめぐる問いにならざるを得ないということである。実り多い対話の場に参加させていただけたことに感謝を申し上げ、このセッションを今後の思考の「入口」としていきたい。

文責:大池惣太郎(RA研究員/東京大学大学院博士課程)

第2部 神秘的なものの扉

第二部では、「神秘」について対話が行われた。キリスト教の思想を中心に、生態学的な観点から他者への配慮や協力のメカニズムについて研究している柳澤田実は、私たちが日常のなかで経験する「誰かと肩を並べて共に歩く」ことによって、静的なパースペクティヴからは捉えられない、「環境=世界の自己開示」とも言うべき知覚経験が実現すると指摘する。柳澤は、こうした動的な知覚経験のなかにこそ「超越なき世界の神秘」があるとし、足りないのはそれに相応しい表現だと述べた。

Kobayashi0B0G2015_8.JPG

一方、現代日本文学、クィア批評を専攻する岩川ありさは、「魔術的リアリズム」と呼ばれる表現形態は、現実が抱える「もう一つの現実」を明らかにするのではないかと指摘した。近代西洋の「科学的リアリズム」に対して、「魔術的リアリズム」は、周縁にとどまりながら、「現実」そのものを問い直そうとする。岩川は、共同体が自明のものとしてきた「普遍的な現実」そのものを再編成するための契機を「魔術的リアリズム」に見出そうとする。第二部では、他者の声に耳をすましながら、翻訳できないものの存在を感受することによって、「新たな普遍性」を手探りする試みが行われた。

Kobayashi0B0G2015_9.JPG

文責:岩川ありさ(東京大学)

第3部 日本(語)の思考の可能性

本シンポジウムの三番目のセッションとなった「日本/日本語の思想の可能性」は、ネイションや地域の周縁あるいはそれを横切る運動に身を置いた時にはじめて切り開かれる「日本」ないし「日本語」の思想の可能性を巡って展開された。特に国際的文脈で活動する研究者を集めたこのセッションでは、様々な社会・政治的背景が絡み合った多言語的文脈において日本について、あるいは日本語で思考するというアクチュアルな経験が議論の根拠となっていた。

Kobayashi0B0G2015_10.JPG

橋本悟は「実存と歴史とをもう一度繋ぐ」という小林先生からの問題提起に応え、「日本」を「trans-Asia(アジアを横断する)」という方法によって考察することが、特殊と普遍の近代的弁証法に依らずその課題に取り組むための手掛かりになることを論じた。デンニッツァ・ガブラコヴァはワルター・ミニョロ(Walter Mignolo)や酒井直樹の議論を参照し、西洋中心的な「人間 humanitas」概念、及びそれと「人類anthropos」との間の差異化に基づいて成立する「日本研究」の理論的枠組みの外で/境界線で「日本」について思考する実践の方法について論じた。それらに対して王前と小林先生からの応答では、具体的にどのようなロジックで「東アジア」の像を描くことが可能なのか、そして既存の「日本研究」のフレームワークを脱構築する「理論」を新たに立てることができるのか、その際その「理論」としてのステータスはどのように変容するのかという重要な問題が立てられた。

Kobayashi0B0G2015_11.JPG

それを受けた討論の中で、橋本は「東アジア」を概念として鍛えるためには、例えばアウエルバッハが『ミメーシス』で「ヨーロッパ文学」について行ったようなプロジェクトを東アジアについても試みるといった大きな視点が必要であると指摘した。しかもアウエルバッハ自身がこの大著をヨーロッパの周縁(イスタンブール)で書き上げたことは重要な示唆を与えてくれるかもしれない。また議論の中で王前から言及があった周作人も、そうした周縁からの思考の実践者だっただろう。周作人が魯迅とともに日本で編集した『域外小説集』は、主として東欧の作家——デンニッツァの母国であるブルガリアの作家Ivan Vazov(1850-1921)も含む——の翻訳によって編まれていた。そして魯迅こそはデンニッツァのテーマである「雑草」の想像力の体現者であった。そうした周縁の系譜学の先にこそ開かれている「日本」や「日本語」の思想の可能性——本セッションの議論からはその探求の“現場”を随所に垣間見ることができた。

Kobayashi0B0G2015_12.JPG

文責:橋本悟(シカゴ大学)

総括 資本主義の彼方

本シンポジウムの総括セッション「資本主義の彼方」では、星野太と平倉圭の2名が発表を行ない、大橋完太郎、森田團の両氏がコメントを担当した。本セッションでは、今日ますます広範にわれわれの生を覆い尽くしつつある「資本主義」の彼方をいかにして想像(=構想)すべきか、という――あまりにも巨大な――問いが投げかけられた。

星野に与えられたテーマは「リオタール再読」である。若かりし頃にアルジェリアで社会主義運動に関わったリオタールは、1960年代に本格的に哲学研究に復帰した後も、資本主義の問題を(しばしば間接的な仕方で)長年にわたり問い続けた。そのひとつの集大成とも言えるのが、後期リオタールの主著『非人間的なもの』(1988)[邦訳:法政大学出版局、2002年]である。同書におけるリオタールの資本主義に対する立場をごく簡潔に要約すれば、おおよそ次のようになる。すなわち、(「貨幣」以上に)われわれの「時間」を支配するシステムが資本主義であるとすれば、それに対する抵抗もまた、その「時間の支配」に対してなされるほかない。そしてリオタールによれば、資本主義に対するそのような抵抗の契機のひとつこそ、(前衛)芸術がわれわれに与える感性的な「中断」や「衝撃」なのである。しかし同時にリオタールは、たえず新たな表現形式を求め、そこから一定の差異=利潤を産出する「前衛」のダイナミズムが、逆説的にも資本主義と奇妙な共犯関係を結んでいることをただしく見て取っていた。リオタールの議論の向かう先は、そうした意味で、ある種の袋小路と背中合わせである。そこで本発表の最後では、これまで比較的注目されることの少なかった「身体なしで思考することは可能か?」という同書所収のテクストに着目しつつ、人間の未来を――45億年後の――「太陽系の破局以後」という巨大なパースペクティヴから論じるリオタールの哲学に、前述の「前衛」の袋小路とは異なる道筋が見いだせるのではないか、ということを示唆した。

Kobayashi0B0G2015_14.JPG

打って変わって、平倉氏に与えられたテーマは「動物と資本主義」である。平倉氏は、哲学者であり馬の調教師でもあったヴィッキー・ハーンの議論に即しつつ、世界化する資本主義の中に「他の通路」を見いだすべく「動物」に着目する。なぜ動物なのか? ハーンは、「アメとムチ」式の調教によって動物を服従させるのではなく、あくまでも「言葉」によって動物たちを服従させることを試みる。それが、彼の主著『アダムのつとめ――動物を名前で呼ぶ』(1986)[邦訳:『人が動物たちと話すには?』晶文社、1992年]で論じられていることである。ハーンによれば、そのような「服従」は別々の機構をもつ人間と動物たちのあいだで相互的に生じるのであり、それは人間と動物がともに「言葉に」服従するということを意味している。そしてそのような技法においては、動物「一般」ではなく、目の前の「特定の」犬や馬に対してそれが可能かどうかがつねに問題とされる。ハーンの議論にとって、とりわけ犬や馬のような「家畜」という存在が重要なのは、それが人間の「近傍」において、コミュニケーションにたえず成功したり失敗したりしながら、人間とともに進化してきた動物だからだ。平倉氏の論は、ケアリー・ウルフやドゥルーズ+ガタリの動物論に抗して、ハーンの議論におけるこの人間と動物の関係の具体性――相互所有性――を一貫して支持するものであった。そして発表の後半でも述べられていたように、このような具体的な相互性のうちに発生する「技(アート)」に着目することは、生物と環境の相互作用や、乳児の養育について考える上でも、きわめて示唆に富む発想であるように思われる。

Kobayashi0B0G2015_15.JPG

コメンテーターの大橋氏は、両者の発表に対して人間の「死」の固有性をめぐる問いを付け加えた。星野の発表に対しては、リオタールの議論には人間の個別的な「死」が欠けているのではないか、あるいは平倉氏の発表に対しては、動物は人間のようには「死」を意識することがないのではないか、というコメントが加えられた。よってそこでは、先の「実存」の問題にも繋がる、人間の「死」をめぐる問題にこそ主眼が置かれていたように思われる。

Kobayashi0B0G2015_16.JPG

対照的に、森田氏のコメントは「幸福」をめぐるものであった。まず、星野の発表に対しては、われわれが資本主義によってもっとも大きく奪われているものこそ、ほかならぬ「幸福」なのではないかという問いが提起された。リオタールの議論に即して言えば、時間を支配するシステムとしての資本主義においては、アリストテレス的な「進行形」と「完了形」が共存できる行為としての(=生を成就、完遂することとしての)「幸福」のあり方が疎外されているのではないか。なぜならそれは、つねに遅延する「商品」の到来によって約束される資本主義的な「幸福」のあり方とは質的に(時間論的に)にまったく異なるものだからである。さらにそこで興味深いと思われたのは、近代において人間は「幸福な実存」のイメージをついぞ持ち得なかったのではないか、という森田氏の指摘である。たしかに、従来「実存」のモデルとされてきたのは、もっぱら悲劇的人間であった(オイディプスなど)。そこから平倉氏の発表に対しては、「近代哲学」と「馬」との奇妙な折り合いの悪さに注意が向けられつつ(ニーチェとフロイト)、そこから発表において例示されたような「馬とともにある人間の実存」の可能性をどのように思考/実践できるのか、という問いが提起された。

Kobayashi0B0G2015_17.JPG

その後の小林先生の応答は多岐にわたったが、なかでも聴衆にもっとも大きな反応を引き起こしたのが、両者へのコメントから派生しつつ述べられた「哲学」をめぐる態度である。哲学とは新たな「技」や「スタイル」の発明にほかならず、その意味で哲学は「芸術」に劣らず重要な「技(アート)」であることを使命とする。また、ディスカッションで話題となった幸福の問題に関しては、われわれが実存的に逃れられない「支配」や「所有」からの一時的な「解除(リリース)」として幸福を捉える、というヴィジョンが語られた。

本セッションは、その表題からしてあまりにも大きな問題を扱うものであったが、資本主義の全面化という状況に対していかなる「別の」回路を見いだすことができるのか、ということに一貫して力点が置かれたセッションであったと言えるだろう。

文責:星野太(東京大学IHS)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】UTCPシンポジウム「新たな普遍性をもとめて――小林康夫との対話」
↑ページの先頭へ