【報告】<現代作家アーカイブ>文学インタビュー第1回 高橋源一郎
「ご承知のように」と言う人のことは信用してはいけません――。試みに、この「教え」に従うことを宣言した上で「報告」を書き始めることにしよう。
「教え」の主は作家・高橋源一郎である。1982年に『さようなら、ギャングたち』でデビューして以来、「小説家」として執筆を続けている。今日では日本を代表する「現代作家」として語られることも多く、事実今回は、<現代作家アーカイブ>と題された企画の最初の会に氏を招くことになった。
<現代作家アーカイブ>はUTCP、東京大学付属図書館、飯田橋文学会の3つの組織によって運営されるインタビュー企画である。国内の「現代文学」を広めるため、数か月に一度公開の場で作家にインタビューを行い、記録ビデオをもとに「アーカイヴ」を構築するという長期スパンのプロジェクトである。第一回目は、東京大学の武田将明先生が「聞き手」を務めた。
武田先生は18世紀イギリス小説を専門とする英文学者であると同時に、文芸批評家でもある。2008年に評論「囲われない批評」で群像新人文学賞を受賞して以来、各種文芸誌で精力的に批評活動を展開している。(ご本人曰く、高校生の頃『ジョン・レノン対火星人』を読んで以来、高橋源一郎氏の「大ファン」でもあると言う。)
UTCPでは武田先生を中心に二度の読書会を行った上で、インタビュー当日(2015年2月18日)を迎えた。会場がほとんど満席に近い中、東京大学から石田英敬先生、飯田橋文学会から作家・平野啓一郎氏が簡単な挨拶を行い、インタビューが開始される。
この企画ではあらかじめ作家によって自身の3冊の本が指定される。今回は『さようなら、ギャングたち』(1982年)、『日本文学盛衰史』(2001年)、『さよならクリストファー・ロビン』(2012年)をもとに高橋氏へのインタビューが進められた。
武田先生による高橋氏の経歴をまとめたハンドアウトをもとに、デビューまでの経緯、一種の「失語」体験、(「詩」ではなく)「小説」を選択した理由、ゴダールをはじめとするフランス映画からの影響、「音楽」を聴くように書かれるという氏の執筆プロセス、スランプ、『日本文学盛衰史』で扱われる二葉亭四迷へのシンパシー、『さよなら、クリストファー・ロビン』と3・11後の創作…と氏の歩みが少しずつ明らかにされていく。
とりわけ印象深かったのは高橋氏による「朗読」の時間である。それぞれの作品から部分的に選択された言葉が氏の声によって「受肉」されていく。どの朗読も素晴らしいものであったが、特に、『さようなら、ギャングたち』冒頭のほとんど「ナンセンス」でしかない単語の群れが高橋氏の思いのほか重厚な声によって「ヴォリューム」として具現化される経験は報告者にとって忘れがたいものであった。
あるいは、『さよならクリストファー・ロビン』との関連で語られた作家の「即応性」という主題は「共生の哲学」にとっても示唆的なものであるかもしれない。何か大きな事件――仮に「カタストロフィ」と呼んでおこう――が起きた時、世界はしばしば「ひとつの声」で覆われる。(こうしたことはつい数か月前もフランスで起こった。)このとき、「作家」は「別の声」を上げられる数少ない存在である。出来る限り早く、「別の声」を上げなければならない。それこそが作家の重要な仕事の一つである。高橋氏は力強く語った。(とはいえ、この言葉を聞いてもなお、報告者は震災直後に『恋する原発』を読んだ後の「得も言われぬ」感覚を忘れることが出来ない。)
予定時間を大幅に延長したインタビューの後は会場も交え質疑応答の時間が持たれた。すべてをここに書き記すことは出来ないが、報告者の心に残ったのは、質疑応答の中で氏が「ルック・アット・ミー」(私を見ろ)タイプの小説ではないものを書こうと努めていると語ったことである。氏によれば、他者に向けて何かを書くとき、なるべく「私」を消す必要がある。例えば、冒頭に述べた「ご承知のように」という表現もある意味では読者を「私」の側に強引に巻き込むレトリックである。このとき、その何かを「承知」していない他者=読者は排除されてしまうだろう。他者に向けて書くために、高橋氏は出来るだけこの表現を避けていると言う。
こうしたことも考慮すると、高橋氏の小説には「石の塊」のような何かを解体させる力があるように思われる。「ひとつの声」「私」「意味」…等々を解体する力。いや、しかしながらやはり「力」とは呼びたくないような何かがあるように思われるのである。(報告者は、『さよならクリストファー・ロビン』所収の短編「御伽草子」を読みながらふと、後期ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』を思い出した。両者に描かれるのはいずれもすべてを解体する子供の‐/問いである。ここに高橋氏の小説を読むひとつの鍵があるのではなかろうか。)
「聞き手」を務めた武田先生は大学受験が終わった直後に立ち寄った本屋で高橋氏の小説に出会い、そこに「人生の重要なワンステップではあるが本当に意味があるのかどうかわからないような受験=ゲーム」から解放させてくれるような「自由」を感じたと言う。「受験」をひとつの比喩――しかしながらそれは正確には何の比喩なのであろうか?――として捉えるならば、必ずしも一個人のエピソードとしてのみ理解できるものではないのかもしれない。
この企画が多くの人に文学と出会うきっかけを与えるであろうことは第一回目の成功からしてすでに疑いないことであろう。事実、報告者はすでに第二回目のインタビューが楽しみで仕方ない。
文責:栗脇永翔(東京大学大学院博士課程/UTCP・RA研究員)