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【報告】駒場祭での哲学対話イベント「こまば哲学カフェ」(3)

2015.03.06 梶谷真司, 稲原美苗, 小村優太, 川辺洋平, 松山侑生, 土屋陽介, 佐藤麻貴, 宮田舞, 神戸和佳子, 崎濱紗奈, 安部高太朗, Philosophy for Everyone

駒場祭で開催された「こまば哲学カフェ」、以下は2日目午前に行われた、「『沖縄』をめぐる哲学対話」についての報告である。当日のファシリテーションを担当した神戸と、事前準備を担当した崎濱より、それぞれ報告する。

「沖縄」をめぐる哲学対話 (崎濱紗奈・神戸和佳子)

哲学対話(またはP4C)に出会ったときからずっと、いつか、沖縄をテーマに哲学対話をしようと思っていた。それはたぶん、2年前にハワイに研修に行ったときに、私が「哲学対話」と「沖縄」の問題に同時に出会ったからだと思う。同行者の中に、いつもいつも沖縄のことばかり話している、沖縄出身の女性がいた。それが、今回の共同企画者の崎濱さんだ。「沖縄のことを何も知らない(あるいは知識として知っているだけの)私は、どうしたら彼女ともっとうまく沖縄について話ができるのだろう?」というのが、この2年間の私の関心事だった。いくら勉強しても、もし沖縄を訪ねたとしても、彼女の関心には届かない気がしていた。そんなわけで、今回の駒場祭の対話は、実は私の非常に個人的な問題関心に、参加者のみなさんを巻き込んだものであった。

企画を練る時点で、崎濱さんと話をする。彼女は、沖縄をめぐる政治的・歴史的な問題について、特定の強い立場をとるような参加者が来場し、対話の場の安全が壊れる発言をすることを非常に懸念していた。しかし、私としては、東京で沖縄をめぐる対話をするときに誰かが傷つくとしたら、それは無知や無関心によるものである可能性のほうがよほど高く、対話が高度に政治的なものになる可能性はほとんどないと感じていた。要するに、「みんな沖縄という「政治問題」にはそこまでの関心はない」ということだ。ここの感覚が、2人の間でもう、すでに、噛み合わない。

蓋をあけてみれば、当日参加してくださったのは、「沖縄って大事な問題だとおもうんだけど・・・」「もう少し沖縄について知ったり話し合ったりしてみたいけれど・・・」と感じているような、沖縄に縁もゆかりもない方たちばかりであった。沖縄にルーツがあるわけでもなく、それどころか訪れたこともなく(旅行したことがある人もほんの数名であった)、専門的に沖縄について研究しているわけでもない人たちだけの対話というのは、しかし、少なくとも私個人にとって、非常に新鮮で有意義であった。みずからのアイデンティティに「沖縄」が含まれない人々はなぜ沖縄について語りづらいのか、沖縄を考えづらいのか、という問題に、終始真剣に向き合った対話であったと思う。

イベントの流れは次のとおりである。まず、「自分にとって思い入れのある土地」を述べながら、参加者の自己紹介。その後、崎濱さんが用意して下さった沖縄の写真のスライドを見て、沖縄についてのイメージを膨らませる。そして、沖縄について考えたい問いを挙げていった。選ばれた問いは、「沖縄と◯◯の違いはどうして生じるのか」というものであった。この◯◯には、たとえば本土、内地、大和、日本、といったことばで指されるようなものが入るのだが、どうにもそこが、どのことばを使ってもしっくりこないということで、こういった表現になった。

このことばが見つからないという違和感が、沖縄についての語りづらさを象徴しているように思われた。つまり、「沖縄」から語りかけられたときに、自分が何者として応答してよいのかわからなくなるのだ。自分は普段、「沖縄」が呼びかけてくるような「本土」としても「日本」としても生きてはいない。今回の対話の参加者にしても、沖縄に縁をもたない者だからといって、逆に「我々」として連帯できるような何かにはならない。無意識のマジョリティーは、応答する主体にはなれないのだ、と感じた。なにか語り返そうとすると、「私」のことばが、沖縄をめぐる問題の「構造」の中に溶けていってしまう。「私」のことばは、構造に奪われていき、ついには、私はことばを失くしてしまう。

これを逃れる方法が、まだ私にはわからない。ただ、哲学対話に可能性があるとすれば、哲学対話がなにかを代表するような発言を極力許さず、(たとえ構造から逃れ出ることは不可能であるにしても)すべての参加者にひとりの「私」としてのことばだけを語らせる力をもつことにあるだろうと思った。それは、自身のポジショナリティを意識的に自覚しようとする、というような倫理的な対処とは、少なくとも異なっている。そして、それよりもわずかに有効な可能性であるように、今は感じている。

今度は、いつか、沖縄にもっと深い思いをもつ方々を交えて(少なくとも、今回福島訪問のために対話に参加できなかった崎濱さんを交えて)、また別の「沖縄をめぐる哲学対話」をしてみたい。

(神戸和佳子)

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「『沖縄』をテーマに哲学対話をしてみよう」という提案を神戸さんから受けたのは、駒場祭二ヶ月前のことだった。普段「近現代沖縄思想史」を自らの研究テーマとしているものの、哲学対話という形式で、しかも駒場祭という不特定多数の来場者が集まる場所で「沖縄」を話題にすることには、正直なところかなりのためらいがあった。もちろん、沖縄を研究する者として、そして沖縄出身者として、「沖縄」について広く議論する場を持ちたいという気持ちも常々抱いていた。だが、「沖縄」という言葉が喚起する様々なイメージ、特に政治的な諸問題について議論が行われた場合、自分がうまく対処できるのか、全く自信が無かった。私にとって「沖縄」にまつわる政治的問題は、あまりに自らを深くえぐる問題であり、公の場でフランクに議論するにふさわしいと判断を下すことができなかったのである。このような具合だったので、神戸さんの誘いをのらりくらりと交わし続けていたのだが、彼女の「P4C、P4Eの理念である“Intellectual Safety”を信じましょう」という言葉に押し切られる形で、この企画を始動させることとなった。“Intellectual Safety”(対話中には対話のルールを守り、相手を攻撃したり傷つけたりする行為を行う人に対しては退場を求めるというP4Cの鉄則)が守られることにより、様々な政治的・人種的対立がありながらも相互対話を可能にしたハワイのカイルア高校やワイキキ小学校の事例に勇気づけられながら、日本という場においてそれを実践してみようとする、私にとっては大変挑戦的な試みであった。

以上述べたのが、企画に至るまでの経緯である。一度「やります」と言った以上、逃げられなくなったわけなのだが、「沖縄対話」ではテーマが広すぎるのではないか、もう少し対話のテーマを絞った方が良いのではないか、と私は相変わらず悩んでいた。神戸さんの提案で、事前準備会(P4E研究会)の場をお借りして、一度「沖縄対話」を実験的にやってみようということになった。すると(意外にも…というのは、私は皆様がそれほど「沖縄」に関心があるとは思っていなかったからである)「問い」(哲学対話では、始めに参加者から「問い」を募って対話のトピックを決める)を複数個出して頂くことができたので、当日も特に話題を制限することなく、来場者にお任せしよう、ということになった。

肝心の駒場祭当日の様子にてぜひここで報告したいところなのだが、諸事情により私は当日福島出張のため東京を不在にしていたため、対話に参加することはできなかった。当日参加することができない代わりに、何か対話のきっかけになればと思って、「沖縄」に関連する写真を事前に何枚か用意して、会場で映写してもらうことにした。福島出張を終えて、神戸さんと二人、UTCPオフィスにて当日の記録映像を視聴した。私が用意した写真が役に立ったかどうかは分からないが、そこには約20名の参加者の方々が「沖縄」について活発に議論を交わす様子が収められていた。神戸さんのファシリテーションにより、複数の問い(「辺境対中央という不平等は他にもあるのに、なぜ本土対沖縄という問題がこれほどフォーカスされるのか」「なぜ沖縄の人ではない、あるいは沖縄に行ったことも無いのに、沖縄のことを語ることができるのか」等)が出されたあと、全体でディスカッションするテーマに「沖縄と○○(本土・内地・日本・ヤマト)の違いは何か」という問いが選出された(「○○」のところに敢えて「日本」などの特定の用語を当てはめずに空欄にしておいたのは、そのことによって対話の幅を広げようと言うファシリテーターの神戸さんの計らいには感服した)。ビデオで確認しただけなので、その場でどのような議論が行われたのか詳細に記すことは控えたいと思うが、一点だけ、私の感想を述べてこの報告文を終わりたい。

当日対話に参加できなかったことは残念だったが、神戸さんには「却ってそれで良かった」と仰って頂いた。というのも、もしあの場に私がいた場合、唯一の沖縄出身者ということになって、単純なQ&Aに終始してしまったかもしれないということだった。今回私が後日記録映像を視聴して抱いた感想も、それに近いものであった。非沖縄出身者が沖縄出身者に対して質問をし、それに回答する、というのは対話の望ましい形ではなかろう。全体のトピックとして選ばれることは無かったが、個人的にはある方が出してくださった「なぜ沖縄の人ではない、あるいは沖縄に行ったことも無いのに、沖縄のことを語ることができるのか」という問いが印象的だった。沖縄研究者の間では、「普遍と個別」をめぐる問いがしばしば浮上する。沖縄という個別的なテーマを論じることにどれほどの意義があるのか、という反問と共に浮上するのが、個別を語ることを通して普遍に近づこうという欲望である。しかし、今回の対話から見えて来たのは、無理に普遍的価値を求めようとするのではなく、あくまで個別的なものを個別的なまま、広くそれを議論するということの可能性だった。このような感想を抱いたのは、私が普段から、どのようにして、「沖縄」を本質的あるいは排他的でない形で、しかも政治性を消去するのでもなく語ることができるのか、という研究課題を持っているせいかもしれない。「沖縄」を、ある特定の島の名前としてではなく、ある一つの議論の「場」として出現させるという試みは、まだまだ続きそうである。

(崎濱紗奈)

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