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【報告】フランソワ・ヌーデルマン氏講演会

2015.01.14 桑田光平, 栗脇永翔

去る12月11日、フランソワ・ヌーデルマン氏の講演会が行われた。長年ラジオ番組「哲学の金曜日」のパーソナリティを務めた氏の講演は非常に明快で、開かれたものであり、質疑応答も活発に行われた。UTCPとも関係の深い哲学者であるため――2009年に行われた講演会「Le toucher des philosophes」に関しても本サイトの報告を参照されたい――、ここでは改めて氏の紹介と、今回の滞在全体について書き記すことにしたい。

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まず、ヌーデルマン氏は――その世代にしては珍しく――ジャン=ポール・サルトルの研究から出発したフランスの哲学者である。しかしながら、氏の活動は決して狭義の「サルトル研究」に留まるものではない。出版された著作のリストを見渡すと、「イマージュ」や「まなざし」といったサルトルのキーワードを起点とする芸術論に加え、ベケットや三島等同時代の作家に関する文学論、さらには「私」「系譜学」「家族」等に関する哲学的な考察が軽快に展開されていることがわかる。そして近年の代表作が2009年に出版された『哲学者のタッチ――ピアノに向かうサルトル、ニーチェ、バルト』に他ならないが、本書の翻訳が今年出版され(フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者――サルトル、ニーチェ、バルト』橘明美訳、太田出版、2014年)、実質的に今回の滞在はその出版に合わせての来日であった。わずか一週間程度の滞在であったと聞くが、その間に立教大学、日仏会館、そしてUTCPで計4回の講演が行われた。簡単に、それぞれの講演を紹介することにしよう。

まず、日本サルトル学会/脱構築研究会の共催で行われたワークショップ「サルトル×デリダ」の特別講演として行われた12月6日の講演では、後期デリダの動物論『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』におけるサルトルへのオマージュ(パロディ?)を確認した後、デリダが着目する「猫」の形象に対し、サルトルの著作――とりわけ遺稿『倫理学ノート』――に見られる「犬」の形象を検討する刺激的な分析が披露された。翌7日に日仏会館で行われたセミナーでは、哲学者における「複合的自我」(personalités multiples)という問題系を提示し、ニーチェ、ボーヴォワール、キルケゴール等に見られる哲学者の生とその理論との間に見られる非‐/乖離の問題が考察された。さらにその翌々日、今度は日仏会館のホールで行われた講演会では『哲学者のタッチ』を発展させる形で哲学史における音楽の問題が広く紹介された。フルート楽曲からイタリアオペラ、バロック音楽、そしてサルトルの弾くぎこちないショパン・・・と実際に氏自身が音楽を流しながら演出される講演会は文字通り「心に触れる」(touchant)ものであった。

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そして最終日――翌日には帰国の途についたということなので文字通りの最終日――UTCPでなされた講演が「嘘、哲学の精霊」である。「(唯一の)嘘」(le mensonge)等というものが存在しないことを説明した後、ニーチェ、デリダ、カント等西洋の哲学者を参照しつつ、中心的にはルソーの『孤独な散歩者の夢想』「第四の散歩」における嘘と真実の問題を考察するものであった。講演後は、ギリシア哲学やキリスト教文化における嘘の主題、嘘と「フィクション」の差異、西洋文化と「告白」、あるいは「真実」というものの関わり、(ヌーデルマン氏自身も著作を著した)三島と嘘の関係、嘘と「約束」の関係・・・等々、会場との間で活発に議論が交わされた。報告者自身も――小林センター長とともに――「どうして「嘘」に関する講演をしながら「自己欺瞞」の哲学者サルトルを取り上げないのか」と抵抗したが、この点に関しても氏なりの仕方で応答してくれたのが嬉しかった。

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短い滞在の間に四回もの講演を行ったヌーデルマン氏にはもとより、それぞれの講演でディスカッサントを務めた澤田直先生、桑田光平先生にもこの場を借りて感謝を申し上げたい。講演会後に開かれた懇親会でも、引き続き開かれた議論が続けられた。とりわけ、聴講した学生達がリラックスして氏と対話できたことがよかったと思う。総じて、盛会であった。

文責:栗脇永翔(UTCP/東京大学大学院博士課程)

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