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時の彩り(ラスト・ラン) 175

2015.01.07 小林康夫

★頌春。
 みなさま、新年おめでとうございます。

 すでに梶谷さんの元旦ブログで「送り出されて」しまいました。一本先手をとられた。ちょっとくやしい年明けです。と、悔しがっているようでは、まだ「往生」していないようではありますね。

 しかし、12月の授業が終って、なんとなくゴールのテープをきった感じはある。1月は余韻で「流して」走るという感覚かな。とはいえ、3月のほんとうの「終わり」までにやるべきことはたくさん残っていて、ラストランはまだ続きます。とりわけ書きあげなければならない原稿の数々。来週は、IHSの企画でインド行きも入っているし、休める状態には当分なりそうもありません。

★ でも、せっかく梶谷さんが「送り出して」くださったので、それを受けて、(今年度はすでにそうしていましたが)、この場で、UTCPのバトンをかれに渡しておきましょう。よろしくお願いします。その受け渡しに際して、わたしからのお願いをあえてこの公開の場で表明しておきます。

 1)UTCPは、なによりも若手の研究者たちの教育研究の場です。かれらがUTCPの活動を契機にどのように成長するか、それが最大の目標であるべきです。国際的な経験を積み、いい研究をして、それを発表して、成長していく。それがUTCPの希望です。わたしのUTCPの最大の誇りは、この間に、UTCPを経由した多くの研究者が多くの本を公刊したことです。哲学系の人文科学の分野でいま活躍している30代40代の多くがUTCPを通過している。「駒場スクール」とさえ呼ぶことのできるダイナミズムです。これが可能になるためには、専攻とは別の、UTCPのような開かれた組織が絶対に必要であった、と確信しています。これを最大の目標にしてほしい。リーダーはつねに、若い人の研究の進捗に注意を払い、それを断固、擁護してほしい。それをはっきりここで言っておきます。(わたしが「育てた」などとは言いません。UTCPという場をわたしと共有して、そこからみごとに巣立っていった人たちに来ていただいて1月24日にシンポジウムをいたします。イベント欄を参照願います。)
 2)もうひとつ、わたしが定めたUTCPの目標は、海外の研究者との国際的なつながりです。それも、たんなる一度限りの招待などではなく、継続的な、つねに刺激的な創造的対話をともなう真の交流です。そのためには、海外の研究者にわれわれの仕事を理解してもらう必要があります。そのためにこそ、わたしは、外国語による個人論集のシリーズをつくりました。海外の研究者に認められ、評価される仕事をしてはじめて、真の相互理解が起ります。「えらい」とされている海外の研究者を呼んできてただ講演をお願いするような一方的な関係の時代はとうの昔に終っています。いまや、相互の徹底した対話が必要です。海外の研究者を招いたときは、かならずかれらのトポスを揺り動かすような批判の矢を放つ、ということをわたしは、自分のモラルにしてきました。そしてそれこそが、かれらとの真の友情の基盤になったと思います。UTCPに来て、はじめて日本の研究者とほんとうに対話できた、と語った日本の哲学の外国人研究者の言葉をわたしは忘れません。UTCPは今後も世界に対して、大きく開かれたドアであってほしいと願います。
 3)梶谷さんは、「思考の空白地帯」への哲学の飛び込みという新しい活動について語っています。これは、たしかに、わたしの守備範囲を大きく超える領域ですね。UTCPがこの方向に舵を切ることに、わたしとしても異存はありません。すでに大きな成果があがっているこの活動がいっそう展開されることを祈っています。
 が、いまや本格的に「意地悪爺さん」となりつつあるわたしとしては、このような活動にとっては、みずからのあり方をどう律するかが、なによりも重要なモラルの問題として問われるということは言っておかなければならないでしょう。対話がどの意味において(真に対等な)「対話」なのか。もしそこで、われわれが、「思考のプロ」あるいは「権威」として振舞っているのだとしたら、それは度し難い「傲慢」というものでしょう。自分の思考の基盤である存在についてどのような反省がそこでなされ、その反省がどのような新鮮な哲学的思考の創造として結実するか、を問わなければなりません。何を引き受けるのか、ですね。個々の人間の途方もない深さ、複雑さ、————もしほんとうにそれと向かい合うならば、そこからの「学び」がどのようなものであるのかを、みずからの責任において、哲学として結実させなければならないのです。なにが「真理」なのか、————それでもそう問わなければならない。そうでなければ、それは「哲学」の名を借りた別のものということになるでしょう。きわめて困難な道なのです。でも、そこにしか道はない。わたしもきっと別の仕方でしょうが、「同じ道」を行くのだと思います。人々のそれぞれ異なった具体的な存在との「対話」からどのような新しい哲学が誕生するのか、わたしの期待はけっして小さくはないのです。

 以上、「遺言」です。

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