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【報告】第9回BESETO哲学会議

2014.12.24 川村覚文, 佐藤空, 小村優太, 佐藤麻貴, 栗脇永翔

2014年10月18日と19日の二日間にかけ、東京大学駒場キャンパスにおいて第9回BESETO哲学会議が開催されました。この会議は、北京大学(Beijing)、ソウル大学(Seoul)、東京大学(Tokyo)の三大学が持ち回りで、毎年開催されています。その目的は、若手哲学研究者を対象に、日頃の成果を発表する国際的な場を提供する、というものです。
今回、東京大学からはホスト校ということもあり、17名が参加しました。うちUTCP関係からは8名が発表しました。以下に、その8名(研究員・大学院生)からの報告を掲載します。

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谷内洋介(東京大学大学院総合文化研究科修士課程)

発表タイトル:Troubled Narrative Self during Manic Episodes in Memoirs by People with Bipolar Disorder

今回の発表では、双極性障害(躁うつ病)の症状のひとつである躁状態(mania)を テーマにした。躁状態は、目的志向的行動の増加や睡眠欲求の減退を特徴とする、 いわば「活動的になりすぎる」症状である。これは、当事者の主観的な側面から考えた際に、しばしば快感を伴う。そのため、「躁状態は(主観的には)病理ではなく、幸福に他ならないのではないか」という疑念が生じる。この疑念と向き合う際、躁状態の主観のあり方に対して解釈学的現象学によるアプローチを取ることがひとつの有効な策である。そこで、本発表はポール・リクール(1990, 1992)の物語 的自己論を参照しつつ当事者の手記を解釈した。リクールによれば、自己物語を含め全ての物語は不調和を起こしつつの調和(discordant concordance)を特徴とする統合形象化(configuration)の働きによって形作られる。調和は、物語全体の首尾 一貫性や統合性などを意味し、不調和は「どんでん返し」や期待はずれなどの首尾一貫性を乱す要因を意味する。だが、双極性障害者の躁状態に関する手記には、調 和・不調和両面に関して通常とは異なる状態が見られる。調和については、3つのレベルの理解不可能性が見られ、不調和に関しては自己の否定的な属性に対する強力な拒否が見られる。そして、後者の不調和の変容が調和の変容を生んでいると考えることが出来る。このように、物語的自己は、幸福に代表される正常な自己物語の進行からの逸脱している。ただし、これは単なるユニークさとも考えられうるものであるため、躁状態が本当は主観的な幸福ではないのかという当初の問いは、決着がつかなかった。

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栗脇永翔(UTCP/東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

発表タイトル:The Absurdity of the Revolving Door : Jean-Paul Sartre and the Philosophy of Reversal

哲学にとって対話とは何か。BESETO哲学会議に参加し、改めて浮かぶのはこのような問いである。
しばしば言われるように、哲学ほど定義が難しい「学問」はないかもしれない。ある程度共通了解が得られる限りでも古代哲学、中国哲学、仏教哲学、科学哲学、政治哲学、分析哲学、美学、倫理学、現代思想…と細分化されており、当然ながらこうした分類にうまく当てはまらない領域横断的な対象も存在する。
さらに、グローバル化が叫ばれる今日では、いかなる言葉を用いて誰と対話するかということが別の問題として浮上する。BESETO哲学会議では東京大学のふたつのキャンパス、北京大学、ソウル大学の学生が発表者として参加するが、いずれの大学の学生にとっても――大半の参加者にとっては――母語ではない英語で対話することが要求される。対話の障害が二重三重に設定されているということも出来るかもしれない。
フランス現代哲学を研究する報告者は、当日ジャン=ポール・サルトルに関する発表を行ったが、プログラム全体を見ると他にフランス哲学の発表はなかった。割り当てられたセッションでは、それでも比較的関係のあるライプニッツの発表を行う学生と一緒になったが、彼自身はどちらかと言うと分析哲学の立場からの研究であり、「スタイル」という観点からはまったく異なる哲学研究であった。
おそらく、こうした齟齬はあらゆるセッションで起きていたことであろう。学生たちは比較的問題意識を共有している同じ大学の学生の発表を聞きに行きがちだったし、さらに言えば、自分の発表だけして帰ってしまう学生もいた。
報告者は必ずしもこうした状況を批判したいわけではない。形式的に国際交流に努めることで自分の研究を深める機会を失ってしまうのは――ある意味では――もったいないし、「業績」が非常に重要な意味を持つ昨今の状況の中で、英語での発表という機会それ自体にのみ価値を求めるのもひとつの戦略であろう。
にもかかわらず、多少の努力は必要だと感じた。報告者は当日の朝、電車の中で同じセッションの発表のプロシーディング・ペーパーに目を通し、発表後に内容面でも語学面でも稚拙な質問をしたが、すると今度は、その学生が必死に自分の研究とはスタイルが異なる報告者の発表を聞き、質問を返してくれた。おそらくは双方ともにそれほど本質的な議論が出来たわけではないだろう。それでも、こうしたところにかろうじて哲学の対話というものが成り立っていたのだとするならば、BESETO哲学会議も非常に意味のある場であったと言えるのではなかろうか。他者の話を真剣に聞き、それに対し真摯に質問すること。簡単そうで案外難しいこうしたちょっとした努力を続けていきたいと思う。
なお、より本質的な収穫もあった。報告者のセッションはもともと本郷の榊原哲也先生が司会をする予定であったが、内容を考慮し、急遽司会が同学科の鈴木泉先生に変更された。フランス現代哲学にも造詣の深い鈴木先生からはフランス語から英語への翻訳の問題や、同時代の哲学者との比較の可能性等有益なアドバイスをいただいた他、セッション後の休憩時間にはサルトルに関するちょっとした雑談をする機会も得た。
近くにある遠さというものもある。普段交流の少ない本郷の先生や学生と交流が持てたこともいい機会であった。

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飯塚理恵(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

発表タイトル:A Reconsideration of the Recent Debate on Value Problem

今回のBESETOは私にとって二度目の参加だった。学会では様々な分野の研究に触れる事ができ、とても興味深い時間を過ごすことができた。私は今回現代認識論の大きなテーマである、知識の価値についての発表を行った。知識の価値を一元的に説明できると想定する多くの認識論者に反対し、そのような想定が問題含みであることを示し、そこから導きだせる帰結に関して述べた。この研究はBaehr(2009)に負うところが大きいが、その紹介に留まらず彼の議論を更に発展することができたと考えている。質問では、従来の認識論の枠組みをなぜ脱すべきなのか、その動機付けが弱いと指摘を受けたので、今後もより議論を先鋭化していきたい。また、発表後に前年度北京大学に行った際に会ったソウル大学の参加者達と再会し、お互いの国の哲学の発展について語り合うことができた。彼らは英語力が高く、学会で質問も積極的に行っており、彼らとの交流は非常に刺激的であった。アジアの若手研究者との交流を通じて、アジア各国も現代哲学研究の発展の担い手になるだろうと感じる事ができた。

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藤田由比(東京大学大学院総合文化研究科修士課程)

発表タイトル:The Value of Language and the Language of Value: English as the ‘Universal Language’ of Academia

I presented my paper, “The Value of Language and the Language of Value: English as the ‘Universal Language’ of Academia” at the 9th BESETO Conference which took place on the 25th and 26th of September 2014 at the University of Tokyo (Komaba Campus). Graduate students and faculty from Beijing University, Seoul National University, and the University of Tokyo presented on a broad range of philosophical topics during the two-day conference. One of the most valuable experiences of the conference was the feedback that I received on my paper. As I was presenting on a subject which has relevance to most disciplines in the arts and humanities – the implications and values for academics of conducting their research in one language or many – it was very interesting and illuminating for me to hear what fledging academics from other universities in other countries think about this theme. The hints and guidance I received from both faculty and students helped me to cast a more critical eye on my own argument and to search for ways to gain a better and deeper grasp of the subject matter. With regard to the conference as a whole, I was impressed by the sheer variety of topics that were presented during the two days – it gave me a chance to learn about fields of philosophy I previously had little to no knowledge of. Finally, I was grateful that I had the opportunity to meet with and get to know students and staff from all three universities, whom I would never otherwise have been able to meet.

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佐藤空(UTCP)

発表タイトル:Enlightenment and Historiography: Adam Smith, Edmund Burke and the Rise of Social Science in Late Eighteenth Century Britain

私は「封建制から商業社会へ:アダム・スミス、エドマンド・バーク、18世紀ブリテンにおける社会科学の興隆」という題で報告を行なった。そこでは、アダム・スミスのヨーロッパ史叙述がベーコン、ハリントン、ヒュームを経由して発展した歴史叙述、すなわち封建制の崩壊と絶対王政の興隆の原因分析に強調点を置く歴史観の延長線上にある一方で、バークのヨーロッパ史叙述は騎士道とキリスト教の文明化作用という18世紀後半にしばしば散見される歴史解釈に酷似した歴史叙述を展開したと主張した。スミスとバークは、研究者たちによって頻繁にその思想的類似性が指摘されることが多かったが、少なくとも歴史叙述に関しては根本的に異なり、またその歴史叙述の相違が経済学と政治的保守主義という異なる社会理論を生み出す重要な要因となっていたことを示唆した。

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同じセッションでは、続いてJae Heum Kim氏 (ソウル国立大学)が「ライプニッツの本質主義:究極的原因としての表現」という題で報告を行った。その報告の論文の目的は二つあり、一つは、これまでの先行研究がライプニッツの普遍的表現論の含意を解釈しようとする際に前提としていたものが何であったのかを明らかにすることである。二つ目は、そのような前提の間にあって未だに発見されていない論理を見つけることであった。すなわち、研究者たちはこれまで、もし普遍法がモナド(単子)の本質に含まれているのなら、その時、そのモナドは存在論的に独立した論題を暗示する他のモナドと存在論的に強い結合を持つと想定してきた。しかし、ここで提示される新しい解釈によれば、各々のモナドはそれが世界の普遍法を含むような仕方で宇宙を表現するのであるが、同時にそれは他のモナドと何ら存在論的な結合を持たないのであった。つまり、モナドの表現はある種の究極的原因として理解されるのである。

小村優太(東京大学IHS)

発表タイトル:The Mode of Existence of the Fictional Entities in Avicenna

本発表は、中世アラビア語哲学の泰斗、イブン・シーナー/アヴィセンナIbn Sīnā/Avicenna (980–1037)の論理学、認識論、形而上学という三つの分野における空想的存在の扱われ方を取り扱ったものである。報告者はこれまでイブン・シーナーの内的感覚論を中心とした認識論を研究してきたが、最近はそこから発展させて、論理学、形而上学におけるイブン・シーナーの哲学も併せて論じていきたいと考えている。そのため、これら三つの分野を跨って「空想的存在」というひとつの題材を取り扱うことが出来たのは素晴らしい経験であった。(さらにその後、本会議での経験をもとに、いまはイブン・シーナーの医学にも注意を向け始めている。)

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大会全体の印象としては、中国と韓国からの研究者の方に、いわゆる「分析哲学」を専門としている方が多かったということだ。報告者は中世哲学という、世界的にもマイナーな分野を専門としているため、世界の哲学のトレンドには疎いのだが、中韓における分析哲学の人気ぶりには驚かされた。そのため、報告者の発表への質疑にも、分析哲学の視点からの質問が多かったが、科学哲学や分析哲学など、普段あまり積極的に交流することのない分野の専門家から自らの研究にたいするコメントを戴けたことは、こういった会議の醍醐味と言えるだろう。

片岡雅知(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

発表タイトル:How not to understand the feeling of interpersonal obligation in cooperative situations

私たちは協力する。そのとき私たちは、自分のパートナーと協力し「なければならない」というある種の義務感をいだく。私の発表はこの義務感がどこから生まれているのかを分析した。この義務感は「相互的」なものであるという特徴を持つ。私はこの義務をあなたに負っているのだ(逆もしかり)。もし私が協力をしない場合、あなたはそれを正当に責めることができる。「自分自身が合理的であるために、やると決めたことはやらなければならない」という実践的合理性に訴えた義務感の説明は、この「相互性」を捉えることが出来ない。そこでこの「相互性」を捉えるべく、問題の義務感は一定の道徳規則の反映なのだという主張が行われてきた。しかしこの義務感が道徳的なものなのだとすると、「殺人などの道徳的に悪いことを協力して行う」際に感じられる「葛藤」は、「殺人の悪さ」と「協力しないことの悪さ」という2つの悪さの比較の反映だということになる。しかしこの帰結は不自然だ。殺人の方が悪いことは明らかであり、この比較から葛藤は出てこないと思われるからだ。従って、この義務感が完全に道徳的なものだと考えることは出来ない。

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佐藤麻貴(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

発表タイトル:Visible and Invisible: Reconsidering the Substance Dualism in Environmental Problems

環境問題における見えるものと見えないものの関係性に出発点を置き、自然環境の現象を理解しようとする科学が、従来は見えるものに重点を置き、そこから真理を探究しようとしていたのに対し、現代科学は次第に見えないものへ、すなわち未来予測をその範疇に取り入れるようになった。しかし、現代科学における未来予測は、未来予測という名の過去データを基礎にした、過去中心主義ではないだろうか。近代西洋科学における真理へのアプローチは、デカルトにおける実体二元論に端を発するとされているが、アジアにおける我々は、朱子の理一分殊思想から理の探究という観点における、西洋の手法とは異なった真理へのアプローチを構築することはできないだろうか、すなわち、データという量的なものには変換しない質的なものを、科学はどう扱えばよいのだろうか、ということを見えるもの、見えないものの観点から論じた。
フロアから、環境を理解する上で、データの示す空間(例えば放射能の数値データ)と実際の生活空間を比較した場合、人間の主観的な空間の捉え方が異なり、データだけでは語り得ない質的なもの(放射能数値的には住めない場に、生活空間として暮らしてきた故に、住み続けたいと思うこと)を、どのようにしたら現代科学は扱うことができるようになるのか。それを、数値データが示している故に、イチゼロで、そこで暮らしてはいけないのだと、本当に言い切れるものなのか。そうした曖昧な個人個人における質的なものを、科学はどう扱えばよいのだろうか、というコメントをいただいた。

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同じセッションで私の後に報告したCancan Liao 氏(北京大学)の “Fang Yi-zhi’s Reflections on Western Natural Science and Religion”は、明代後期から清代初期において西洋文化を中国に紹介した方以智(Fang Yi-zhi)について、Fangの解釈した西洋文化と当時の中国への西洋文化の紹介方法を概観した研究発表だった。Fangが当時、中国の学者たちに言ったとされる「借遠西為鍛郯子」に着目し、西洋文化から学ぶべきは学ぶものの、中国文化にも西洋とは異なる独自に発展した思想と方法論があり、それは西洋文化に勝るとしたFangの考え方が紹介された。具体的には、朱子学と仏教における「天」の概念が、カトリックにおける「神」概念より優位概念であり、人類が到達できない「神」を持ち出す西洋よりも、人類が到達できるとされる「聖人」を持ち出す朱子学の方が、より一般市民の意識向上を図るには適当であるとしたFangの考え方を紹介するに留まった。
コメンテーターからは、Liao氏の今後の研究方針について、何を結論として導出するための研究なのか質問が出た。これに対し、Liao氏からは明確な回答を得ることはできず、研究の初期段階であるため、今後、Fangについて更に研究を進めたいとの応答であり、同じ研究者の卵として、彼女の応答を聞きつつ、大変残念に思った。現代において、Fangの思想を取り上げることの意義を説明できないままに、Fangを研究すること、そこから導出される結論、あるいは導出しようと考えている結論が不明慮なのであれば、何故、数ある中国思想家の中からFangを選んだのだろうか。また、何故、今、カトリックを仮想敵としたFangを研究題材として取り上げるのだろうか。様々な疑問だけが残され、制限時間の都合上、煙に巻かれたような発表内容だった

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