【報告】宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校での哲学対話
2014年9月25日・26日の二日間にわたり、宮崎県立五ヶ瀬中等教育学校にて、UTCP協力のもと、哲学対話の授業が行われた。
五ヶ瀬中等教育学校は、平成6年に全国初の公立中高一貫校として開校した、各学年40名ずつの生徒たちが共同生活しながら学ぶ、全寮制の学校である。この学校は、今年度からスーパーグローバルハイスクール(SGH)に認定され、「ローカルからグローバルへ」をテーマに、中山間地域からグローバルリーダーを輩出する教育活動を行っている。この教育活動の一環に、哲学的思考の育成が位置づけられており、UTCPはこの部分に協力することとなった。今回は、UTCPの梶谷真司先生に、江口建氏、小村優太氏、宮田舞氏、神戸和佳子が同行し、5人のチームで授業を行った。
1日目は、五ヶ瀬中等教育学校の4年生40名と、近隣の鞍岡中学校の3年生10名、三ヶ所中学校の3年生30名の合同授業で、哲学対話を行った。はじめに梶谷先生が、哲学対話とは何か、哲学対話でどんな力を伸ばすことができるかについて、30分ほど講義された。次に、5つのグループに分かれて、自己紹介をしながらコミュニティーボールを製作した。ボールを作る際には「今日一日ひとりで過ごすとしたら何をしたい?」という問いを設定したが、この問いの答えについて3人ずつが質問を重ねていくという「質問ゲーム」の手法も同時に取り入れた。簡単な設定ではあるが、全寮制の学校で過ごす五ヶ瀬の生徒たちと、そうではない近隣の中学生たちが、その回答の違いをもとに「ひとりで過ごすこと」についての自分のイメージを問い直す時間となった。また、自然な形で自己開示し、質問と応答を重ねあうことを通じて、互いをより理解し、グループの協働を生み出すという効果も意図されていた。
続いて、次の1時間は、5つのグループがそれぞれ違ったスタイルの対話を体験した。
・絵から考える:ノーマン・ロックウェルの「大発見」を見ながらの対話
・言葉から考える:中原中也「月夜の浜辺」を読みながらの対話
・体から考える:自分の手を観察しながらの対話
・情報から考える:ある危険な諸性質をもった物質(実は「水」)についての対話
・一から考える:素材を使わず、生徒たち自身が出した問いについての対話
私は「言葉から考える」のグループを担当した。「月夜の浜辺」を音読した後、その内容についての疑問を募るところから対話を始めた。このとき、わからない言葉や不思議に思うこと、何でも問いを出してほしい、と言ったところ、最初に手を挙げた生徒が「たくさんあるんですけど、そんなの普通に聞いたら、あたしがバカだってバレちゃいますよね?」と言って、そういいながらも「あのー、袂って何ですか?」と質問をしてくれた。この二つの質問は、当人はまったく意図していなかったであろうが、非常にうまくみなを哲学対話に導いてくれることとなった。つまり、(たとえバカだと思われるようなことでも)自分がわからないことはすべて問うべきことである、ということを、無意識に、身をもって実践してくれたのだ。しかも、この質問を(そんなことは辞書を引いて自分で調べなさい、と退けるのではなく)みなで問い考えるべき疑問として真面目に取り上げることから、「つまり語り手は和服を着ている」「それなのに落ちているのが洋服のボタンというのは不自然ではないか、もしかしたら花の牡丹のことかも」「そもそもこれはいつの時代のことなんだろう、洋服と和服が混在していた時期もある」と話が発展していき、詩の解釈についても、深い洞察が重ねられることとなった。その後も、「心に沁みる、はなんとなくわかるけど、指先に沁みる、は感じたことがない」「この語り手は何か、自分の中に欠けたものを感じていて、ボタンを拾ったときにそれが少し埋まった感じがしたのではないか。それなら自分にもわかる」「だからこの詩はこんなに悲しい感じがするのかな」「でも、夜中に波打ち際をずんずん歩くなんて、ただ悲しいだけじゃなくて、ちょっと変なテンションだよね」と、詩のなかの言葉のひとつひとつに着目しながら、詩の情景を立ち上げつつ、それぞれが自分の経験と結びあわせて、自分自身についても探究していく対話が続いた。それでは国語の読解の授業と同じではないか、という疑問もあるだろう(私自身も対話をしながらそう思った)。しかし、よい国語の授業は必ず哲学的なのだと思う。こうしたプロセスを経なければ、たとえば中也が子を亡くした事実だけを与えられても、その事実の意味も詩の意味も、真に理解することはできない。
他のグループも、それぞれの素材を生かしながら、哲学対話を楽しんでいたようだった。このようにまったく異なる素材を同時に持ち込むスタイルのワークショップは、UTCPのP4Eプロジェクトにとっては初めてのことで、今後の実践を考えるにあたって、私たちにとっても非常によい経験となった。
2日目は、五ヶ瀬中等教育学校の3年生のクラスで、哲学対話を行った。この日も、まずは梶谷先生から哲学対話についての講義。その後、5人1組のグループに分かれて質問ゲームを行った。ここでは、「一人になりたいのはどんなとき?」という問いを設定した。最初は、さんざん悩んだ末に「うーん・・・眠いとき?」「そんなのトイレのときだけじゃない?」とつぶやくような生徒も多かったが、その後の質問の繰り返しを通じて、自分の思考がはっきりとしていく感覚を味わっているように感じられた。
その後は、3つのグループに分かれて対話を行った。この日選ばれた問いは、
・得意なことと好きなこと、どっちをやるのがいい?
・いつかロボットは心を持つようになるの?
・僕たち、なんで生きてるの?
であった。
私が担当した、ロボットと心についての対話のグループでは、設定されたテーマに近いところでは、人間の制作意図を越えたロボットの心の働きが生じる可能性があるかという問題、また、人の心とその模造品であるロボットの「心」はどのような関係にあるかという問題が論じられた。この議論自体、人間と人工物の関係を問い「心」の本質に迫る非常に興味深いものであったが、ロボットや人工知能に日頃から関心をもっていない生徒には、まだ少し入り込めないところがあるようにも感じられた。むしろ、より多くの生徒の関心を引いたのは、そこから発展的に生じてきた、「まわりにいる人がよくできたロボットではないとなぜわかるのか」という問いであった。これに応じて、ある生徒が「世界のすべては僕のために作られたものなのではないか、と感じることがある」と語り、それに続いて別の生徒が、「実はそのことは、先日お風呂の中で彼と語り合った問題で、そのときは彼に非常に共感したのだが、今はそれはやはり間違いだというふうに感じる。自分のために作られたにしては、あまりにも自分の意志や価値観にそぐわない人や物が多すぎる」と続けた。プライベートな場でも非常に哲学的な対話が行われていることに驚くとともに、そうした対話を、哲学対話の「授業」の場で共有してくれたことを、ありがたく思った。
他のグループでも、哲学対話を持ち込んだ東大側がまったく驚かされ怯むような高度な議論が、自然体で行われていた。それが哲学対話の力だ、と知ってはいるものの、そんな議論を聞かされながら、感想用紙に「哲学って全然難しくなかった、楽しかった」と書かれると、まったく驚いてしまう。今回は特に、そうした経験であった。
たった2日間の滞在であったがその間に感じたことは、五ヶ瀬中等教育学校は、東大の哲学のグループが授業をしに行くまでもなく、すでに「哲学的」な空間となっているのだということだ。バカだと思われるのでは、とためらいを示しながら質問することも、お風呂の中で話した哲学的な問いを共有することも、普通はそう簡単にできることではない。それが受け止められるという期待があって初めてできることだ。授業の感想用紙に、日頃から自分が抱えていた哲学の問いをぶつけてきてくれた生徒も多くいた。この学校には、日常の中に、すでに哲学が根付いている。だから、もし私たちにできることがあるとすれば、哲学対話の考え方や手法を伝えることによって、みずからのそうした問いや思考や態度を、より積極的に肯定できるようにすることだけだ。そして、ひとりで問い続ける厳しさに加えて、誰かと一緒に探究する暖かさも感じてくれたなら、今回の授業をした意義が少しはあったのではないかと思う。UTCPは今後も継続して、五ヶ瀬中等教育学校が「哲学」というみずからの特性をより発展させていけるよう、微力ながら応援を続けていきたいと考えている。
(報告:神戸和佳子)