【報告】2014年度東京大学-ハワイ大学夏季比較哲学セミナー(3)
引き続き、2014年8月に行われたハワイ大学と東京大学の比較哲学セミナーについての報告です。今回は、セミナー4回目と5回目の講義に関して城間正太郎さんに報告してもらいます。
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セミナー4回目
2014年8月7日(木)の今日は、梶谷先生と石田先生の第二回目の授業の様子をお届けする。まず、“Emotion as Normative Principle”(「規範的な場所としての感情」)と名付けられた今回の梶谷先生の授業では、「感情は規範性(normativity)を基礎付けるのか」という大きな問いを中心にレクチャーが進行した。一般的に、法や規範は社会的かつ全体的で、客観的だとみなされる一方、感情は私的で個人的であり、主観的なものだとみなされている。しかし、感情により規範性を基礎付けるためには、感情もまた社会的かつ全体的で、客観的でなければならない。
そして、感情をそのような方向に理解しようとした人物に、ドイツの現象学者ヘルマン・シュミッツ(Hermann Schmitz、1928-)がいる。シュミッツによれば、感情とは私たちの内側にあるのではなく、私たちの外側の空間に広がっている「雰囲気」(英語でいうところの“atmosphere”)であり、「身体を通じて私たちを捉える空間内の雰囲気」として定義される。そして、シュミッツの定義する「雰囲気」とは、ある身体の一感覚を通じて把握されるものではなくむしろ全感覚を通じて把握されるものであり、人を圧倒するものである。現象学者であるシュミッツがこのように「雰囲気」について語ることの背景にはナチス・ドイツへの反省という政治的な契機があり、シュミッツは彼独自の立論により誰しもが雰囲気=感情に圧倒されかねない存在であることを主張している。梶谷先生のレクチャーは報告者にはなじみの薄い議論ではあったが、「感情=雰囲気」というシュミッツの定式はどこか日本人の気性に通じるところがあり、その意味では腑に落ちやすい議論であった。
次に、石田先生の第二回目の授業の内容をかいつまんで説明しよう。前回に引き続き今回の授業でも、和辻哲郎(1889-1960)の『風土』(1931)の日本語の原文とその英訳を照らし合わせ、テクストを丁寧に読み進めながらの授業となった。今回の授業では、「現象は私たちの外にある」という点がポイントとなった。和辻の言葉を借りれば、例えば「我々自身が寒さにかかわるということは、我々自身が寒さの中へ出(・)て(・)い(・)る(・)ということにほかならぬ」(強調部は原文のまま)のであり、「かかる意味で我々自身の有り方は、ハイデッガーが力説するように、『外に出ている』(ex-sistere)ことを、従って志向性を、特徴とする」。
また、ハイデッガーが時間という観点のみから人間存在を理解したのに対し、和辻はそこに空間という軸を導入した。「(ハイデッガーの『存在と時間』に読まれる)人の存在の構造を時間性として把握する試みは、自分にとって非常に興味深いものであった。しかし時間性がかく主体的存在構造として活かされたときに、なぜ同時に空間性が、同じく根源的な存在構造として、活かされて来ないのか、それが自分には問題であった。(…)そこに自分はハイデッガーの仕事の限界を見たのである。空間性に即せざる時間性はいまだ真に時間性ではない。」こうした主張は和辻に固有なものではなく、田辺元(1885-1962)とともに京都学派を代表する西田幾多郎(1870-1945)にも見られ、空間性というテーマは京都学派全体にとって重要であったといえる。報告者は石田先生の哲学的な議論の全てについていけたわけではないが、石田先生の授業からはテクストを扱う際の繊細な手つきを学ぶことができ、その意味は大きかったように思う。
今日の授業の最後では、迫り来る台風に備え石田先生が「建物の外に出てはいけない」といった注意事項を連絡された。ハワイを大型の台風が襲うのは珍しいことであり、このSummer Institute中にそうした災難が降って来たのは参加者全員にとって不幸としか言いようのない出来事であった。授業や授業後のアクティビティは学生同士がお互いを知るいい機会でもあるが、それも台風が来ている間は叶わない話である。キャンパスにある立派な図書館やジムも、台風襲来の間は利用できなくなっていた。しかし文句を言っても始まらないので、この日の授業後には、学生同士で台風に備えた食料の買い出しに出かけた。訪れたキャンパスの近所のスーパーでは水が売り切れており、ハワイの地元民の人々も稀に見る台風の接近に十全の備えをしていることが見て取れた。だが幸いなことに、ふたを開けてみればSummer Instituteの参加者が宿泊していたオアフ島に大きな被害は出なかったので、おかげでハワイにて台風に襲われるという珍しい経験が出来たといっても構わないだろう。台風訪れる大学の寮で一人食べたさば缶がなかなかの美味であったことが今でも思い出される。
セミナー5回目
2014年8/10(日)の今日は、台風で潰れた8/8(金)と8/9(土)の授業の補講が行われ、Roger T. Ames先生による授業と学生によるプレゼンテーション、そしてPeter Hershock先生による基調講演(Keynote)が行われた。このブログでは、特に前二者の様子をお伝えする。まず、 “ ‘Bodyheartminding’(xin 心): Reconceiving the Inner Self and the Outer World in the Language of Holographic Focus and Field”と名付けられたAmes先生の授業では、中国哲学の根幹的な概念をAmes先生独自の方法により輪郭付ける議論が短い時間の中で展開された。中国や日本の思想が西洋の概念によって語られて来た事実に対する違和感から出発しているAmes先生は、中国独自の言葉で中国哲学について語ることを目指しており、その意味で、中国哲学に馴染みの薄い報告者にとっては議論を追いかけるだけでも決して楽ではなかった。そこでは様々な概念が提示されていたが、特に「関係性」(“relationality”)という概念が、この授業のみならず、Ames先生の講義全体を通してのキー•コンセプトとなっていたように思われる。それは、西洋的な個人主義とは異なる東洋的なある種の原理である。Ames先生は東洋哲学がご専門のHershock先生の議論に授業中言及されたが、それに則ると、関係性と個人との関係は後者が優位に立つものではなく、関係性が究極の現実としてあり、個人とはそれに由来するあるいはそれから抽象化されたものとして捉えられるのである。
そして、レクチャーに続く学生によるプレゼンテーションでは、学生がいくつかのグループに分かれ、Ames先生に指定された『孟子』や『老子』などのテクストからの抜粋の読解を発表した。中国語の原文と与えられた英語訳とをつきあわせ自分なりの訳や解釈を考え出すという多少骨の折れる課題ではあったが、ハワイ大学側の学生、東京大学側の学生双方が興味深い意見を提出し、Ames先生もそれらに対し丁寧なコメントをしてくださった。報告者が担当した『老子』のテクストでは、中国哲学の根幹を成す「道」(dao)という概念や、「域」という概念の解釈を巡って議論が盛り上がりを見せた。また、中国語の原文を訳する際には、ユダヤ教あるいはキリスト教的な大文字の概念(例えばHeaven)に依拠しない訳を作ることがポイントであった。この日の授業は朝早くから夕方まで続くややハードなものであったが、学生のプレゼンテーションは台風が過ぎ去ったおかげでからりと晴れ渡った空模様にも負けない熱気感じられるものであったように思う。
この日の前日の8/9(土)の授業は休講だったが、8/8(金)とは異なり実際には台風の影響はほとんど見受けられなくなっていたので、外出した学生も多かったようである。ハワイを初めて訪れた学生の中には、8/9(土)に美術館を訪れた人も何人かいたようである。聞いた話によると、じっくり鑑賞しようとすると一日はかかる充実した展示内容であったらしく、報告者は結局このSummer Institute中にそこを訪れることができなかったのが心残りである。とはいえ、8/9(土)を利用し、報告者はハワイ在住のおばの家を訪れることが出来た。報告者のおばは30代の頃に沖縄からハワイへ移り住んだ移民であり、今ではハワイでの生活は20年以上に及んでいる。ハワイには日本からの移民やその子供たちが数多く住んでおり、そのおかげで、外国といえども日本人にとって暮らしやすい環境が整っている。
ハワイで会うことの出来たおばには、車でなければ訪れることの出来ない海岸や名所に連れて行ってもらえた。観光名所として名高いワイキキ•ビーチやアラモアナセンターならば、バスを利用してキャンパスから短時間で訪れることが出来るが、そうではない場所を訪れることが出来たのは幸運であった。学生同士のアクティビティも思い出深いが、この日の体験もまた貴重なものであった。
文責:城間正太郎(東京大学大学院)