【報告】哲学対話ワークショップ「 銀河哲学ガイド—銀河鉄道でめぐる思考の天の河—」
5月31日(土)に東京大学駒場キャンパスにて、哲学対話ワークショップ「銀河哲学ガイド~銀河鉄道でめぐる思考の天の河~」が開催された。講師として大阪大学の稲原美苗氏を招き、報告者の小村優太が司会進行をおこなった。
本来この企画の成り立ちを話すと、Facebookにおける稲原氏と小村の何気ない会話がきっかけだった。「SFと哲学対話って相性が良いんじゃないか?」という思いつきがいつの間にか加速し、まるで坂道を転げ落ちる雪だるまのように大きくなり、今回のワークショップに結び付いたのである。だから、今回の対話の裏の題は「SFから始める哲学対話」としても良いかもしれない。
題材を決めるまでも、いくらか紆余曲折があったように思う。いくらSFと哲学対話の相性が良い(という予感がある)とはいえ、あらゆる年齢層、性別、職業を問わず楽しめる題材が望ましかった。特定の問題意識に深く切り込む先鋭的な作品も、参加者を選べば爆発力があるだろうが、やはり土曜日の午後という時間帯を考えると、どのような作品でも良いというわけではない。そのなかで浮上したアニメ映画『銀河鉄道999』(79)という作品は、かなり幅広い層にアピールする力を持っているのではないかということで選ばれたのだが、ふたを開けてみると、この判断は正しかったと言っても良いのではないか。
当日は天気も良く、5月後半の麗らかな陽気に恵まれた。これまでUTCPのイベントで使用されていたKOMCEEでなく、今回は17号館のKALSだということもあり、慣れない施設に戸惑ったり、新鮮な気持ちで開始を待ったりしていた。休日ということで建物入口が自動的に施錠されてしまい、オートメーション管理の弊害も蒙ったが、「これもSFか」などと思っていたら開始時間になった。結局15分ほどの遅れで開始したが、まずは稲原氏による全体のレクチャーがおこなわれた。稲原氏自身の障害とSF的な認識の親和性というお話は、普段の認識行為を所与のものとして、なんの疑問もなく受け入れている自分にとっては新鮮な驚きでもあった。またSFというと「二流文学」のように考える人も多く、真剣に取り上げるべき価値のないものと見做されることが多々あるように思う。しかし、SFの本質のひとつに、日常的な世界観のズラし、未知の体験にたいする驚きがあり、θαυμάζω(私は驚く)から出発する哲学との共通点は意外と多いのではないだろうか。
稲原氏のレクチャーのあとは、『銀河鉄道999』のラストシーンをしばらく参加者全員で鑑賞した。ラストシーンだけといえども、さすがに『999』、しばし全員スクリーンのなかの世界に引き込まれた。気になったのは、SF的な要素のほかにも、いわゆる浪花節的要素が強いということだろうか。SF的な世界観と「男ならやらなきゃいけないときがある」といったマッチョイムズの奇妙な同居は、意外とSF作品のなかでも珍しいかもしれない。都会的にソフィスティケートされた手塚治虫の世界観にマッチョイムズが出現する場合、これほどストレートな現れ方はしないだろう(その分手塚の病理の方が根深いとも言えるかもしれない)。
『999』を観たあとは、対話の題材決めをおこなった。参加者全員が思い思いの疑問を出し合い、そこから哲学的な問いを抽出していった。機械のからだと生身のからだ、機械化惑星、永遠の生命、機械のからだになったら意識はどこにあるのかなど、哲学的に興味深い問いかけが大量に出てきたのだが、けっきょく問いをひとつに絞ることはなく、さまざまな問いが頭のなかに渦巻いた状態で対話に入ることになった。
参加者の人数にあわせ、全部で3つのグループに分かれて対話をすることになった。私自身もひとつのグループのファシリテーターを務めさせていただいた。最初は機械のからだと生身のからだ、そして精神と身体の関係性という話題から対話に入っていったが、途中参加者の女性から、「精神が身体に影響を与えるのではなく、むしろ身体が精神に影響を与えるのではないか」という意見が出た。男性陣は精神がまず在り、その後身体が在るといった考え方としていたように思うが、この意見が女性から出てきたというのは、私からすると示唆的なようにも思う。さらに、この意見に触発されて、同様な意見が女性陣から数多く出され、身体に対する精神の優位性という(あくまでも私のなかの)先入観は大きく揺さぶられることになった。中世哲学を専門に研究している私は、人間の本質は魂であり、身体はいずれ滅びるものという世界観に染まっていたが、こんなオシャレをする、こんな服を着るといった身体的な状態が我々の気分や精神を決めていくのではないかという意見には「肌感覚の」説得力があったのも確かである。その後も、人間が不老不死を望むのはあくまでも他人との共存が見込まれる状態においてであり、自分ひとりだけが永遠に生き続け、誰も会話する相手がいないということに人間は果たして耐えられるのかという疑問も出てきた。年長の参加者からは、「自分のような年齢になると、どのように死ぬかということを考えるようになり、あまり永遠に生きたいとは思わない」という意見もあり、昔の王侯貴族が不老不死を望んだのも、あくまでも社会的な栄達を前提にした欲望であり、不老不死が人間の根源的な欲求ではないのではないかという議論も生じた。
イベント終了時間の16時には、無慈悲に対話も打ち切られ、みんなまだ話したいのに!という欲求を抱えたままこのワークショップは終了することになった。最終的な合意に至らないまま、時間でキッチリ対話を打ち切るというやり方には賛否両論あるだろうが、この欲求不満をうまくその後の、(今度は自分自身による)探求につなげられるのであれば、この対話は成功だったと言えるのではないだろうか。この対話は到達点でなく、あくまでも出発点である。いったんこの対話で哲学する姿勢に目が開かれた人は、あとは誰の助けも借りずに哲学という海に漕ぎ出すことが出来るだろう。
(報告:小村優太)