【報告】 ロジャー・クリスプ氏講演会
2014年9月3日(水)、オックスフォード大学教授・オックスフォード上廣実践倫理センターフェローであるロジャークリスプ氏による講演会が予定通りの日時で開催された。数日前に来日されたクリスプ教授は非常に落ち着いた様子で会場に現れ、講演会は終始、会場の和やかでリラックスした雰囲気とともに進行した。
功利主義とは何か?クリスプ教授はこの問いから講演を始めた。プラトンの『メノン』の中でソクラテスが問題にしたような「徳 (virtue)」が一般的な言葉であり定義が困難である一方で、「功利主義」という言葉は哲学用語であり、この用語を使った哲学者の語法を用いながらその意味を問うことが可能である。講演者は、3人の「古典的」功利主義者たちの見解を検討しながら、功利主義の定義に迫る。その一人であるJ.S. ミルによれば、「行動とはそれが幸福を促進する程度に比例して正しく、幸福の反対を生み出す程度に応じて間違っている」のであった。すなわち、正しい行動とは幸福を最大限、促進するもののことであり、それを達成することのできないいかなる行動も誤っている。そして、数多くある誤った行動の中では、幸福を最大化できないその程度においていかなる行動も道徳的により悪いものである。これは、ベンサム的な功利主義の見解の再言であるといってよい。『序論』1.2 におけるベンサムの定義は、合理的なエゴイズムと公平で全般的な快楽主義の間で中立的である。いかなる個人の利害も彼らの幸福の中にあるのかもしれない。効用の原理そのものはコミュニティに関係する。ベンサムはコミュニティとはそれを構成する「個々人」を越えるものではないと考えるし、のちに彼は人間以外の生物も博愛の対象に含めた。
この点ではミルの見解も同じである。ヘンリー・シジウィックは、おそらくはミルとベンサムの両方を念頭に置きながら、功利主義を「いかなる状況下でも、客観的に正しい行動とは全体として最大限の幸福を生み出すものである」という見解として定義している。著者は、これは、おそらくは古典的功利主義の正統な言明であるかもしれないと述べる。
「直観 (intuition)」に訴えながら、ミルは功利主義的な原理への要請が自明なものであると考えているようにも思われる。しかし、直観が功利主義の原理の理性的な理解を含むのだとしたら、ミルの見解はベンサムの見解にも類似している。つまり、快楽が唯一の善だと理性が判断すれば、人は合理的に功利主義を受け入れるようになるということである。講演者は、議論の後半、20世紀の哲学と現代科学の成果に言及しながら、このような古典派の見解とは異なる「非」直観的な功利主義の在り方を模索する。例えば、 現代の最も卓越した功利主義者であるピーター・シンガーは進化心理学と神経科学の近年の成果は、功利主義を肯定するものであると主張した。神経科学や進化論は倫理に関する我々の理解と密接に関係しているかもしれない。そして、同じことは文化史 (cultural history) についても言えるのであった。ベンサム、ミル、シジウィックが「直観的な」功利主義を展開した時、彼らは非歴史的な観点から語っていたのではない。彼らは、特定の文化の特定の仕方で育ったのであり、その中から彼らの思想が生まれたのだった。そして、彼らの文化を理解すれば、その直観が誤っていることが分かるかもしれないのである。著者は、もし我々が我々自身と我々の歴史をより理解すれば、倫理についてより大きな合意が得られるかもしれないという。
質疑応答では、講演の内容について様々な質問がなされ、活発な議論が展開された。東日本大震災後の原発・エネルギー問題を抱える日本に対して功利主義は何がいえるか、といった質問や功利主義は今日の資本主義についてどう語りうるか、といった質問も出た。これらの問いに対して、単純な答えは存在しえないが、講演者の議論と質疑応答は功利主義という近代の大きな思想的枠組みのパースペクティヴを再構築する手掛かりを提供しているように思われた。
(報告:佐藤空)