【報告】2014年度キックオフシンポジウム「Decoding the Noise of Existence 共生の作法」
2014年5月10日(土)、駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム3において、UTCP上廣共生哲学寄付研究部門 2014年度キックオフシンポジウムが開催された。
この研究部門は、L1、L2、L3というプロジェクトに分かれて活動しており、それぞれ一見全く異なる取り組みを続けている。上廣倫理財団のご寄付により、2012年度にスタートした本研究部門も、今年で3年目を迎える。今後のさらなる発展に向けて、シンポジウムが掲げたテーマは「Decoding the Noise of Existence 共生の作法」であるが、それぞれのプロジェクトはどのような「共生の作法」を目指すのだろうか。
シンポジウム開始の挨拶で、UTCPセンター長の小林康夫氏は、現在のUTCPの方向性を「テオリアからプラクシスへ」と特徴づけた。L1~L3の各部門が、それぞれ異なる現場により深く迫り、そこでのプラクシスに光を当てているのが、3年目を迎えたUTCPの活動の現状ということである。他方で小林氏は、現場の“noise”に耳を傾け“decoding”を行うためのテオリアを組織することもまた、欠かさざる仕事であることを強調した。
ここまで文責:筒井晴香(UTCP)+杉谷幸太(東京大学大学院・UTCP)
[第一セッション]
第一セッションでは、L1プロジェクト「東西哲学の対話的実践」が澤井啓一氏(恵泉女学園大学名誉教授)を招いて、「〈近代陽明学〉の誕生」と題する講演をいただいた。
澤井氏の儒教理解は、儒教に本質主義的に規定される内容を認めず、むしろ外部からもたらされた「原理」の「領有化」を可能にする形式ととらえる。儒教は古代周王朝の「天」、中世の仏教(それによって朱子学が生まれた)などを領有化して自らを革新しつづけており、近代においては西洋思想の領有化が問題となるはずである(実際、それが当代新儒家らの主要な関心事でもある)。しかし、儒教による西欧原理の領有化は未だ成功していない。〈近代陽明学〉とは、その挫折した試みの一つとして位置づけられる。
荻生茂博氏の見取り図によれば、〈近代陽明学〉とは、明治以降の日本で盛んになった陽明学再評価(再生産および研究)である。この〈近代陽明学>は、「明治維新の指導原理となった」という言説とともに梁啓超や崔南善らによって中韓に輸入され、民族解放運動に影響を与えていく。付言すれば、中国の思想史のなかで、とくに陽明学に内発的近代の可能性の萌芽を見る島田虔次の戦後の議論は、中国での陽明学再評価から影響を受けており、いわば一回りして日本に逆輸入された〈近代陽明学〉言説なのである。
では明治以降の日本では、どのように〈近代陽明学〉が(再)生産されたのか。井上哲次郎、高瀬武次郎、武部遯吾らによる江戸―明治期の陽明学の「系譜」が、実はあるかなきかの影響関係をたどってかなり恣意的に生み出されたことを澤井氏は明らかにしていく。彼らは、日本における宗教哲学、京都シナ学、社会学の祖というべき人物でありながら、今日では無視ないし忘却されており、それとともに〈近代陽明学〉言説の始原の作為性も隠蔽されているのである。
明治維新を顕彰する国家主義的な〈近代陽明学〉――これが荻生氏の批判の眼目でもあった――との対比で興味深いのは、本来これと対決すべき明治のキリスト者たちの陽明学理解である。内村鑑三の『代表的日本人』における西郷や中江藤樹の場合、「不敬事件」渦中の自身に引きつけた現実的理解という面も残るが、植村正久、海老名弾正に至ると、陽明学とキリスト教との類似性の強調という面が強まる(「領有化」?)。また内村の立場は、儒教を批判した福沢や新渡戸がその「武士道」的側面は称賛したことと通底する面があり、近代日本における儒教言説は、きわめて複雑な様相を呈している。(丸山が「超国家主義の論理と心理」のなかで、明治維新の衝撃を「忠孝の道位を除いただけで、従来有つて居た思想が木端微塵」と回想した河野広中を引用していたことも思い合わされよう。)
しかし、近代日本というトポスでは全てが否応なく同じ地点に収斂する、というわけでもない。例えば社会主義者の大塩平八郎の乱の理解は、高瀬や井上らとは鋭く対立するものであったし、澤井氏も、陽明学における「理」の直覚的把握という認識論的転換に、キリスト者が〈宗教性>の面から関心を寄せたこと自体は好意的にみているように思われた。最後に澤井氏は、〈近代陽明学〉言説の挫折は「明治維新での功績」から「近代社会における有効性」への接続において生じたが、それは儒教的な「易姓革命」ではない「維新」(=王政復古)を、儒教的形式によって語ること自体に無理があったからだ、という結論で講演をしめくくった。
コメンテーターを務めたUTCPの川村覚文氏からは、言説の作為性を暴く澤井氏の方法論をフーコーの考古学に比したうえで、おそらく荻生氏の問題意識にもつながるが、民族主義や国体論との関係など、幾つかの質問が出された。とりわけ、丸山真男のように日本の侵略を近代の不徹底と見る立場と、それを批判して、むしろ近代化が徹底されたからこそ侵略が生じたとする近年の総動員体制論(ポストコロニアリズムとも関係が?)という、日本のモダニティをめぐる論の配置のなかで、澤井氏の議論、そして陽明学はどのような位置を占めるのだろうか。これは鋭い問いである(ただ澤井氏は、『いまなぜ儒教か』に寄せた論文などを読む限り、本質主義的でない儒教論にアジアのモダニティを相対化する希望を見いだしておられるようなので、正面からの回答は難しかったのかもしれない)。
その後、フロアも交えて活発な議論が展開された。小林康夫教授は、澤井氏の「儒教=領有化形式」論の分かりにくさを指摘し、陽明学の本質を「ラディカルな人間主義とでもいうべき精神」と捉える仮定をおいて、このような人間主義は現実のなかに立脚点が見出しづらいため、常に国家や民族などに回帰する恐れがある、それは日本でも西洋でも共通の課題ではないか、と問題提起された。また、日本の無善無悪論との関わりについての質問も出た。執筆者が思うに、西欧における人間主義は、神と対峙し乗り越えることを可能にした個人主義であるのに対し、陽明学の人間像は、既に社会や関係のなかにあるものとしてあり、(和辻的な人の間、かどうかは分からないが)、儒教が近代西欧原理の「領有化」に挫折した理由は、「近代社会における有効性」よりも、近代を成り立たしめる人間像の根本的な相違にあったのではないだろうか。ともあれこうした問題提起を受けて、澤井氏の議論が今後どの方向に進み、深まっていくのか、みな大いに関心をそそられるところであったと思われる。
文責:杉谷幸太(東京大学大学院・UTCP)
[第二セッション]
L3プロジェクト「Philosophy for Everyone(哲学をすべての人に)」のセッションは、プロジェクト・コーディネーターの梶谷真司氏、明治大学の鞍田崇氏、UTCPの清水将吾氏の鼎談のかたちで行われた。
はじめに、梶谷氏が、昨年度のプロジェクトの活動について報告された。P4C Hawaiiという教育実践から着想を得て始まったP4Eプロジェクトであったが、2013年度には、その理念を保ちつつも、実践のテーマ・メソッド・フィールドがいずれも飛躍的に拡大したことが示された。これを受けて鞍田氏は、哲学対話を「ひろがってふかまり、ふかまってひろがる」作法であると位置づけ、その可能性のひとつとして、インクルーシブ(包括)であろうとする動きによって必ず生じるこぼれ落ちてゆくもの(エクスクルーシブ=排除)への想像力を喚起する、ということを提唱された。これは、昨年度のL3プロジェクトの実践のうち、特にコミュニティー形成に関わるものについて、その意義と発展可能性を述べられたものでもあると感じられた。清水氏は、哲学対話の実践者(ファシリテーター)の視点から、対話のなかでどのようなことが起きているのかを具体的に述べられた。特に、哲学対話には「真実の瞬間」としか言いようのないものが訪れる、との言葉は、鞍田氏が示された可能性とはまた違った側面から、哲学対話の意義を象徴的に示すものであっただろう。
この鼎談を受けてフロアからは、「子どもがいると哲学対話が良質なものに変わるというのはなぜなのか」「対話が成立するというのは、参加者に何らかの同質性があるからではないのか(いかなる同質性と異質性が対話の成立条件と考えられるか)」といった質問がなされた。L3プロジェクトの発展のために、哲学対話の実践を広げていくのと同時に、もういちどあらためて哲学対話について哲学することを、求められているように思われた。
文責:神戸和佳子(東京大学大学院・UTCP)
[第三セッション]
第三セッションは、L2部門「共生のための障害の哲学」によるトークセッションである。まず、UTCPの石原孝二氏が「障害の哲学」の概要・狙いと昨年度の成果、今年度の活動予定について述べた。石原氏によれば、障害の哲学は障害の「問い直し」を行うものである。差異の強化の可能性に留意しつつ、差異を「解消」せずに「問い直す」ことの重要性は、石原氏と、ディスカッサントである大阪大学の稲原美苗氏、両名によって強調された。稲原氏は石原氏の報告を受けて、障害者歯科を訪れた経験について語り、「障害により言葉を持たない患者に対して、哲学に何ができるのか」という重い問いを投げかけた。また、現在進行中の取り組みとして、能力のあり方を問う“ability studies”の立ち上げについて述べた。
フロアとの議論において、石原氏と稲原氏は、社会制度の変革による差異の解消や普遍化の試みへの批判を述べた。差異や多様性とそれに伴う齟齬・トラブルを、社会制度の設計によってなくせると考えることは、排除の危険性を孕んでいる。社会デザインの再考は、障害概念自体を再考した上で為されるべきであるというのが、両名の目指す「障害の哲学」の核心的アイデアである。
第二・第三セッションを通して、P4Eと障害の哲学の間にある類似性と緊張関係が浮かび上がった。ごく簡潔にまとめれば、個々の対話の現場における具体性を突き詰めることで普遍性が開かれる可能性を追求しているのがP4Eであるのに対し、多様な障害という具体性とそれらの間の差異を適切に捉えるために、普遍化や包摂とは徹底して距離を取り、異なる方法を目指しているのが障害の哲学であると言えよう。
シンポジウムの結びとして、UTCPの中島隆博氏が挨拶を行った。中島氏は3部門それぞれの取り組みを、哲学の持つ時代的課題に挑むものと評価し、概念の使用が伴う排除の可能性を引き受けつつ概念を用いて哲学を行っていくことの困難と重要性について述べた。
最後に、上廣倫理財団の小原伸一氏よりご挨拶頂き、UTCPのこれまでの取り組みに対して高い評価を頂いた。継続的なご支援に対し、さらなる成果でお返しできるよう努めたい。
文責:筒井晴香(UTCP)