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【報告】メルボルン・モナシュ大学を訪れて

2014.03.20 信原幸弘

私たち信原幸弘、飯塚理恵、片岡雅知は、去る2014年の3月10日から15日まで、オーストラリアはメルボルンに滞在してモナシュ大学の哲学者や神経科学者の方々と研究交流を行った。

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11日には、サイコパスと責任の問題で博論を書いたLuke Thompson氏と責任についておもに議論を行い、12日には今回の滞在のメインであるワークショップ “Philosophy of Mind and Moral Psychology: Tokyo University-Monash University Philosophy Collaboration ”で発表を行った。私たちのほかにも、オーガナイザーのJakob Hohwy氏、その院生の佐藤亮司氏、京大の院生でHohwy氏のもとを訪問中の菅原裕輝氏が発表を行い、聴衆には、モナシュ大学の教員、院生、学部生が集まった。全部で15名ほどのこぢんまりとしたワークショップ(WS)であったが、活発な討議が行われ、たいへん意義深かった。

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翌日の13日には、意識に関する新進気鋭の神経科学者でモナシュ大学の准教授である土谷尚嗣氏と万物に意識があるかどうかといった興味深い話題について話をする機会をもった。また、徳倫理学の専門家でモナシュ大学人間生命倫理学センターの副所長であるJustin Oakley氏から徳や責任、批判的思考についていろいろ有益な話をうかがった。さらに14日の夜には、モナシュ大学の哲学の院生の懇親会に参加させていただいて、さまざまな哲学論議を楽しむことができた。

以下では、WSでの私たちの発表を中心に、各自がそれぞれ印象に残ったことをまとめた。冬の日本から夏のメルボルンを訪れて、心身ともに熱い日々を過ごした私たちの充実した思いが伝われば幸いである。

飯塚理恵(東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻修士課程)

今回のモナシュ大学のWSは、私を含めて6人の研究者が心の哲学、科学哲学、倫理学に関する発表を行った。このWSには、哲学者や科学者、院生だけではなく、WSをオーガナイズして下さったHohwy先生の学部学生までもが集まり、活発な議論がなされた。

私の発表は徳認識論に関するもので、徳認識論には信頼性主義徳認識論と責任主義徳認識論という二つの立場がある。それぞれ知的徳に関する考えが異なり、前者は知的徳によって形成された信念は必ず知識になると考え、後者は徳を持っていても知識を得られるとは限らないと考える。むしろ責任主義者は責任ある仕方で認識を行うことが重要だと考えている。

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しかしここで、責任ある仕方とはどのようなものだろうか?例えば、様々な信念が整合的であるようにすること、適切な仕方で生成されるようにすることなどが思いつく。信念の整合性や合理性といった、人が内的に持つ認識のあり方は、内在主義者と呼ばれる人々によって我々の信念の正当化に関わる諸性質であると考えられてきた。つまり内在主義者達は、どんな信念を信じているか、どのような仕方で信念を獲得しているかといった主体の内的な状態が我々と瓜二つであるにも関わらず悪霊が欺く世界にいるせいで知識を得られないような主体であっても、彼らの信念は正当化されているのだという直観を持っていた。私は責任主義徳認識論によって、このような認識の持つ善さを正当化ではなく徳の概念に訴えて分析することができるようになり、それゆえ認識的評価を正当化とは切り離して考察することができるという利点を示した。

質問では、倫理的徳と知的徳が衝突する時、二者の調停が可能なのかと質問された。この点は実践的知恵という高次の徳を導入するという一つの答えを提案した。更に、責任主義的徳を持っても真理に到達できるとは限らないならば、真理を認識的な善とする必要がなく、非実在論を取るべきではないかという興味深い指摘がなされた。現在の責任主義徳認識論の枠組みに基づけばこの修正は可能であるが、私としてはそうではなく、なぜ我々が真理に動機付けられて知的探究を行う必要があるのかに関して積極的な理由を挙げることを今後の課題としたいと思った。

WSの翌日には、徳倫理学者のOakley先生と話す機会を得る事ができ徳倫理を政策に反映する試みについて今後更なる努力がなされるべきであるという目標を共有した。6日間の滞在を通し、モナシュ大学の哲学者、倫理学者、神経科学者の方々から今後の自らの研究における重要な示唆を与えていただいた。このような機会をいただいたことに深く感謝している。

片岡雅知(東京大学大学院総合文化研究科広域科学専攻修士課程)

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利他主義

理性それ自体は利他主義を要求するだろうか。つまり、利他的でありたいと欲しない場合でも、合理的存在たる人間は互いに助け合うべきなのだろうか。理性は手段の選択に関わり、目的の設定に関わるのは欲求だけだというヒューム的な古典的見解に従えば、答えは「No」に違いない。しかし古典的見解をとりつつ、同時に「Yes」と答える余地がわずかでもないだろうか。私はモナシュでこのわずかな可能性を探った。

議論はこうだ。個々人は、たとえば他人と一緒に行為をするとき、自分自身を「我々」という「大きな行為者」の一部として理解することができる。一度この理解が確立されてしまえば、この大きな行為者の目的に対する手段となるような行為をするべき理由が、その部分である個々人に与えられる――このことは個々人が何を欲するかとは関係ない。そして互いに助け合うことはふつう「我々」の目的にとって重要な手段である。このように、合理性にかんして古典的見解を前提としても、自分を構成員とする集団がそうした合理性に従うという認識を介すればそれだけで、その部分となる個々人は互いに助け合うことを要求されるのではないか。そしてその要求は、相手を助けたいという欲求を個々人が持つこととは関係なく、成立しているのではないか。

この議論に対するモナシュの人々の応答は、主に形而上学的問題に集中した。今回のWSオーガナイザーであるHohwy氏は私の議論を「勇敢だ」と評してくださったが、氏をはじめ複数の人々が、「大きな行為者」なるものは結局個々人に還元可能な存在ではないかという点を指摘した。これに対し私は、今回の発表の焦点は我々の自己理解という心理的問題の方にあったことを断りつつも、人々の集団が一つの独立した行為者であることは形而上学的にも可能なのだと力説した。その他にも、人間の共同行為と(アリのような)動物の集団行動の関連性なども論点として挙がり、活発な議論を行うことができた。

汎心論

集団を強調する理論には、確かに解くべき形而上学的問題が多くある。還元可能性以外によく挙げられるのは意識の問題だ。はたして、集団の意識なるものは存在するだろうか。この点に関連して一つ興味深いことを報告したい。

メルボルン滞在中には研究者や院生と意見交換を行う機会を多く持つことができたのだが、その中で驚きだったのは、科学的アプローチによって意識に関する汎心論(panpsychism)を支持する哲学者や科学者との出会いが数多くあったことだ(残念ながら「集団の意識」はやはり難しい問題であるようだったが)。彼らは言う。様々な文化圏において、その伝統的思惟の中には汎心論的要素が認められる。西洋哲学はもちろん、そうした伝統的心性に対する一種の挑戦として始まり、発展してきた。しかし今や、現代哲学の観点から、汎心論的世界観を再解釈する時が来ているのだ、と。

汎心論は決してメジャーな形而上学的立場ではないが、近年ますます注目を集めているようで、メルボルンでは近々汎心論に関する会議も開催されるらしい。オーストラリアはこれまでもしばしば分析哲学における形而上学を牽引してきたが、その熱い運動の一端に触れた気がした。

信原幸弘(UTCP/東京大学大学院総合文化研究科教授)

困っている人を助けるべきだと判断すれば、ふつうそうしようという動機をもつ。何があっても絶対にそうしようというほど強い動機ではないにしても、少なくとも何がしかの動機をもつ。もしそうだとすれば、道徳的判断には動機が内在することになろう。しかしながら、「非道徳者(amoralist)」、すなわち道徳的判断を行っても、少しもそれに動機づけられないようにみえる人もいる。彼らは人を助けるべきだと判断しながら、少しもそうしようとしない。

道徳的判断には動機が内在すると主張する「動機内在主義」に対して、「動機外在主義」は非道徳者をその反例として持ち出して批判する。私のWSの発表では、非道徳者は道徳的な知識をもっているだけで、真正の道徳的判断を行っているわけではないと主張した。また、それに伴って、内在主義は道徳的判断と動機が概念的ないしア・プリオリに必然的な繋がりをもつという主張ではなく、形而上学的ないしア・ポステリオリに必然的な繋がりをもつという主張であることを明らかにするとともに、内在主義では、道徳的判断は記述と指令の両側面を併せ持つ「オシツオサレツ表象」であることを主張した。

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この発表に対して、いくつかの貴重な質問・コメントをいただいたが、なかでも道徳的判断がオシツオサレツ表象だとすると、道徳的行為は道徳的状況に自動的に反応するだけの原初的な行動になってしまわないかという指摘には、おおいに考えさせられた。発表の場では、とりあえず、我々はたんに道徳的判断を行うだけではなく、その判断が適切かどうかを見極めるメタ認知能力も持っており、それを必要に応じて発揮することにより、我々の道徳的行為はたんなる自動的な反応にはならないと答えた。しかし、この問題はさらなる考察に値する重要な問題であり、貴重な課題を得ることができた。

WS後は、Hohwy氏のはからいで、メルボルンの中心街の屋外カフェで、心地よい夕方の涼風に吹かれながら、ビールを片手に談笑し、そのあとは豪華なギリシア料理をごちそうになりつつ、引き続き談論に花を咲かせた。帰途に着いたのは、すっかり夜も更けた11時ころであったが、夜風がほてった身体と熱した頭にじつに気持ちよかった。

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