【報告】Guy Kahane 連続講演会
2014年2月13日から20日にかけて、オックスフォード大学はOxford Uehiro Centre for Practical EthicsからGuy Kahane氏を招聘し、UTCP主催のもと「Moral Psychology and Ethical Theory」をテーマに、連続講演会を開催した。
一人を犠牲にして、五人を救うことは、許されるだろうか。道徳的判断は容易で自明なこともあれば、困難で大きな葛藤を伴うこともある。私たちはどのようにして道徳的判断を行うのだろうか。道徳的判断を行うとき、どんな要因が関係し、どんな比較考量が行われるのだろうか。とくに感情と理性はどんな役割をはたしているのだろうか。近年、道徳的判断の脳科学的な研究が盛んになり、道徳的判断を導く人間の道徳的な心理が次第に明らかにされつつある。
しかし、こうした道徳的な心理が明らかにされても、そこからどんな道徳的判断が正しく、どんな判断が間違いかを導き出すことができるだろうか。たとえば、功利主義的な判断を行うときには、理性的な熟慮がなされており、義務論的な道徳的判断を行うときには、感情が関与していることが明らかになったとしたら、功利主義的な判断が正しく、義務論的な判断は間違っていることになるだろうか。
Kahane氏は、話をそのように単純化する見方を徹底的に批判して、道徳的判断の正しさ(規範)と道徳的心理(事実)のあいだの複雑な関係を丁寧に解きほぐしていく。事実(「である」)から規範(「べし」)は導けないとしばしば言われるが、事実と規範の関係は導けるか、導けないかという単純な二分法では捉えられないものであり、その込み入った関係を明らかにするには、さまざまな観点からの詳細な分析が必要である。Kahane氏の連続講演はまさにこの分析を主題とするものであった。
以下では、各回の特定質問者にその回の様子を簡単に報告してもらった。どの回も20人程度の参加者であったが(ただし大雪の翌日に決行した第2回はさすがに10人程度であったが)、Kahane氏の明快な講演のあと、活発な質疑応答が繰り広げられた。その活き活きとした雰囲気を以下の報告で多少なりとも味わっていただければ幸いである。
(信原幸弘)
第1回:Process and Content in Moral Psychology(2月13日)
最近の心理学や脳経科学の研究では、道徳判断の形成に関連する脳内過程が調べられている。そういった研究では、仮想的な状況での行為の善悪について人々がどのような判断を下すのか、そしてそこでどのような脳活動が生じているのかが、調べられるのである。
ここではしばしば、道徳判断は二種類に分けられる。一方は、行為がどれくらい善い結果をもたらすかという観点からの判断であり(これは「功利主義的」な判断として分類される)、他方は、その行為が他者の利用や意図的な危害になっていないかという観点からの判断である(これは「義務論的」な判断として分類される)。そして、それらの判断の基盤となる脳活動が、「功利主義的なプロセス」や「義務論的なプロセス」として、これまで理解されてきた。
しかし、そういったふうに道徳判断を「功利主義的」と分類したり「義務論的」と分類したりすることに、問題はないのだろうか。というのも、功利主義や義務論といったものは、もともとは哲学理論の名前であり、本当にそういう理論の内容に合致した判断になっているのかどうかは、よく分からないからである。
Kahane博士の指摘は、まさにここで哲学的に疑わしい分類が行われてしまっている、というものである。とくに、そうした研究で「功利主義的」と呼ばれている判断は、善い結果を最大化するよう命じる原則(「功利原則」)からの推論手続きによって下されているわけではない。むしろそれは、複数の理由の間で重みづけをするような熟慮を介しており、それゆえ哲学的に言えば、全く功利主義的ではないのだ。
私は特定質問者として、そうした複数の理由の間での熟慮を「多元論的」なプロセスと呼べばよいのではないかと提案した(これももちろん、哲学理論から拝借した名前である)。Kahane博士はこれに応答して、それを踏まえればやはり、そのプロセスは功利主義的と呼ぶには値しないだろうと述べ、議論は大いに呼応したものとなった。
こうした理論的な検討を重ねることは、科学的研究の新たな次元を開くことにもつながる。実際Kahane博士は自らの考えのもとで脳科学的研究を行っており、今回のレクチャーではその一部も紹介された。その知見も踏まえればやはり、脳内で功利主義的なプロセスと義務論的なプロセスが対立しているわけではないという。
このような、哲学的であると同時に科学的でもあるKahane博士の研究は、道徳認知に関するこれまでの心理学や脳科学を根本から見直させるものであり、我々人間の脳がいかにして善悪や正不正に向き合うのかを明らかにしていくうえで、重大な意義を持っていると言えよう。
(太田紘史)
第2回:Utilitarian Judgment and the Greater Good (2月15日)
今回の講演は第1回講演に引き続き、トロッコ問題を用いた近年の道徳心理学研究を批判的に検討するものとなった。これまで、「功利主義的判断は熟慮を通して行われる」という主張がなされてきた。しかしKahaneは自身のものを含む興味深い実験を紹介し、VMPCを損傷した人やサイコパス的気質を持つ人など、共感傾向の小さい人々が、熟慮を通さずに功利主義的判断に至ることを大変説得的に示した。これまでの単純な主張を大きく覆す重大な指摘である。
続いて、これまで「功利主義的」と言われてきた人々の判断は、「善を最大化する」という功利主義的考慮に基づいているわけでは必ずしも無いという重要な論点が、Kahane自身の未公刊のデータに基づき様々な観点から示された。これが重要なのは、「功利主義的」判断の研究は倫理理論としての功利主義に対して含意をもつと素朴に仮定されてきたからだ。とりわけ驚くべきなのは、普通功利主義の対極にあると考えられがちな利己主義的傾向の持ち主でさえ、やはりトロッコ問題では「功利主義的」判断を示すという知見であった。
Kahaneは優れた概念整理と効果的な実験によって、我々の道徳心理のさらなる複雑さを鮮やかに示したと言える。特定質問において私は、直観性と感情を結びつける従来の見解に関してKahaneの視点が持つ含意を問うた。これに対しては、おそらく直観性はすぐ考慮される道徳原理の少なさに由来するものにすぎないという新たな示唆が得られた。
(片岡雅知)
第3回:Is, Ought and the Brain(2月16日)
今回の講義では、脳神経科学的な「である」(事実)から倫理的な「べし」(規範)を導くことができるか否かという問題が中心となった。Kahane先生は安易に経験科学と我々の規範的直観を結び付ける哲学者に警鐘を鳴らす。確かに、人々の道徳的直観がどのような要素に反応するかという事実は肘掛け椅子に座って思弁的に考えるよりも実験を行って事実を探求する科学的な研究に取って代わられるだろう。しかしそのような要素は、道徳に関わるものについての人々の規範的な直観と組み合わされなければ、結局規範的な主張を生み出すことができないと彼は強調する。
私は、道徳に関係があるものは何かという直観は個人によって異なるので、そのような直観に依存した仕方で生成された規範的な主張も結局他者を説得することができるような力を持たないのではないかという疑問をぶつけた。Kahane先生は、この図式は直観を共有しない他者を説得するような力は持たないが、人々がどうして規範的な直観を持つに至るのかを理解するために用いられると答えた。
講義では、べし判断に関する挑戦的な主張を導く哲学者に対するKahane先生の慎重な態度が印象的だった。実験の結果が実際にはいくつもの相反する解釈を許すことを鮮やかに示し、拙速な判断を批判し、確実に導きだせる帰結のみを支持する先生の緻密な議論の進め方は、科学哲学者にとって大変重要な姿勢であると感じた。
(飯塚理恵)
第4回:The Armchair and the Trolley(2月18日)
今回の講義は、“Armchair and the Trolley” と題して行われた。“armchair” すなわち安楽椅子は、経験的知見ではなく、もっぱらア・プリオリな反省に依拠した方法論の隠喩である。他方、“trolley” すなわちトロッコは、規範倫理学に対して重要な含意をもつと考えられる、トロッコを使用した想像上の事例を表している。「安楽椅子」に座した倫理学者はこの「トロッコ事例」を使って、たとえば単純な功利主義を批判したり、二重結果の原理を正当化したりしてきた。しかし近年、心理学者や脳神経科学者が、トロッコ事例を用いて実験を行い、その結果にもとづいて倫理的な問題の分析に取り組みはじめている。これらの経験的知見に対して、倫理学者はどのような態度を採るべきだろうか。経験的知見は、規範倫理学に対して意味をもちうるのだろうか。これが今回の講義を貫く問題意識である。
Kahane氏はこの問いに対して、「経験的探求が、規範倫理学における理論や原理を評価するうえで重要な役割を担う」という解答を与える。氏がこの結論を導くために提示した論証は、明瞭かつ説得的であった。とりわけこの論証は、「我々が(たとえばトロッコ事例について)もつ道徳的直観は、おおむね信頼可能である」という、多くの倫理学者が受け容れるはずの前提から出発しており、その点で非常に強力である。倫理学者達は、この論証に何らかの仕方で抗するか、それとも従来の安楽椅子的な方法論を大幅に改訂するかという選択を迫られているのだ。講義後の質疑応答も大変活発であった。概念分析の身分を懸念する筆者の質問に対しては、概念分析それ自体が経験的でありうることを示唆する興味深い返答が寄せられた。
(対馬大気)
第5回:Morality and Evolutionary Debunking Arguments(2月18日)
今回は「道徳と進化論的暴露論法」と題され、道徳的・価値的信念に関する近年の「進化論的暴露論法」の是非が検討された。
進化論的暴露論法によれば、われわれの道徳的信念や直観は自然淘汰や遺伝的浮動などといった、認識論的に信頼できない進化論的過程によって生じた産物として因果的に説明され、ここから道徳に関する懐疑論が帰結する。たとえば、功利主義者のGreene(2008)やSinger(2005)は、義務論的直観の正当性を崩すためにこの論法を利用する。またJoyce(2006b)やStreet(2006)は、懐疑の対象を道徳的信念一般や価値的信念一般にまで広げ、全面的暴露論法を展開する。
このように深刻な暴露論法に対して、Kahane氏はそれに抗う戦略を示しつつ、多くの興味深い指摘をされた。とりわけ印象深かったのは、「功利主義的直観は暴露論法によって崩されない」とするSingerに対する批判である。氏は、功利主義の元となった互恵的利他主義や血縁者への利他主義、さらには「快は善で苦痛は悪」といった信念も進化の産物である以上、功利主義とて暴露を免れ得ないのではないかと言う。
質疑応答で私は、「進化論の因果的解釈vs統計的解釈論争」が進化論的暴露論法に影響する可能性はないかという問題提起や、進化は知覚について認識論的に信頼可能なプロセスと言えようが、価値的信念についてもそうではないかという問題提起をした。これに対するKahane氏の答えはいずれも否定的で、それらの可能性を追求しても暴露論法に対抗することはできないだろうというものだった。6回の講義のなかでも私にとって特に有意義な回であり、このテーマを巡って近くまた出される氏の論文を楽しみにしたい。
(千葉将希)
第6回:From Moral Psychology to Moral Enhancement(2月20日)
道徳心理学が明らかにしつつあることの1つして、我々の道徳性(morality)がいかに些末な事項に影響を受けやすいかということが挙げられる。たとえば、裁判官の下す判断は、食事を摂ってから時間が経つほど厳しいものになっていく。どうやら、血中のグルコース濃度と判決の厳しさが逆相関しているらしいのである。このような知見が積み重なると、次のような疑問が生じてくる。すなわち、我々の道徳性を人為的に操作することができるようになるのではないか。モラルエンハンスメントとは、我々の道徳性の増強を意味する。とりわけ現代では、生物・医学的なモラルエンハンスメントが注目され始めている。薬や深部脳刺激といった脳への外部からの介入によって、道徳的によりすぐれた人間を作りだそうというわけだ。これはもはやサイエンスフィクションの話ではない(ちなみに、深部脳刺激によって暴力性の衝動を制御しようとする試みは、40年以上前にマイケル・クライトンが『ターミナルマン』という小説の中で興味深く描き出している)。うつ病治療などに用いられるある種のSSRIや、心疾患治療などに用いられるある種のβブロッカーなど、すでに多くの人が服用している薬は、我々の道徳性にじっさいに影響を及ぼしうるのである。
我々の道徳性とは何か、それを増強ないし向上させるということはそもそも何を意味しているのか、道徳的により優れた人間が必要なのか、など、考えなければならない問題は多数ある。今回は特定質問者ということで、差し当たり以下の2つの質問を行った。まず、「我々の道徳性がさまざまな因子(環境、個人差、薬など)によってすでに影響を受けている」という事実から、「生物・医学的モラルエンハンスメントは許容される」という結論が本当に出てくるのかどうか。もう1つは、モラルエンハンスメントの究極目標は何であり、それは人類がみな共有できるのか。前者の質問に関しては、細かいアーギュメントを分析することはやはり必要であるとのことであった。後者の質問に関しては、誰もが同意するような明らかに悪い行為を減らしていくことは誰もが同意するだろうし、差し当たりの目標としてよいだろうとのことであった。
(林禅之)