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【報告】国際ワークショップ レヴィナス、ハイデガー、ニーチェ―ディディエ・フランク氏を迎えて

2014.01.15 馬場智一

 2013年12月15日(土)、東京大学東洋文化研究所大会議室にて、「国際ワークショップ レヴィナス、ハイデガー、ニーチェ―ディディエ・フランク氏を迎えて」が行われた。

本イベントは、フランスにおける現象学研究を牽引するディディエ・フランク氏を迎え、ハイデガー研究会、レヴィナス研究会、ショーペンハウアー協会/ニーチェ部会が合同で開催する初めての試みであった。

最初に主旨説明が馬場により行われ、続いてそれぞれの研究会の紹介が行われた。レヴィナス研究会からは馬場が行い、ハイデガー研究会からは齋藤元紀氏、ニーチェ部会からは齋藤哲志氏よりご挨拶頂いた。


ワークショップは、第一部と第二部に分かれる。第一部ではそれぞれの研究会から一人ずつ研究発表を行い、発表が終わるごとにフランク氏からコメントを頂き、次いで参加者との質疑応答がなされた。三つの発表は順番にフランス語、ドイツ語、英語により行われ、会場には欧文原文およびその日本語訳が配布された。第二部ではフランク氏による講演が行われ、次いで参加者との質疑応答がなされた。講演はフランス語で行われ、会場にはフランス語原稿およびその日本語訳が配布された。

第一部では最初に、平石晃樹氏(レヴィナス研究会、東京大学・ストラスブール大学)による発表、 « L’ontologie suppose la métaphysique » : l’ontologie levinassienne dans Totalité et infini »(“存在論は形而上学を前提とする”:『全体性と無限』におけるレヴィナスの存在論について)が小手川正二郎氏(レヴィナス研究会、明治大学・日本学術振興会)の司会により行われた。発表はフランス語により行われ、佐藤香織氏(京都大学・日本学術振興会)がフランク氏のコメント通訳を務めた。

report01.JPG平石晃樹氏

 レヴィナスとハイデガーの関係が取りざたされる際、しばしば倫理と存在論の「対立」という図式が持ち出される。たしかに、その第一の主著『全体性と無限』において、レヴィナスが存在論への批判的な姿勢を鮮明に打ち出したゆえに、こうした図式が流通するのも理由のないことではない。しかし、レヴィナスの主張を粒さにみれば、倫理は存在論に「対立」するのではなく、存在論の「条件」となるのである。本発表は、レヴィナスのいう倫理がハイデガーの存在論をいかなる意味で条件づけるのかを、『全体性と無限』を主要テクストとして丹念に検討したものである。
 扱われた論点、さらには参照されている先行研究を見ても実に周到に準備された本発表を、フランク氏はまず高く評価し、若干の補足的コメントを述べられた。教授が最後にされた質問は、本発表の本質に関わるものでありそれはまた、発表者だけでなく、レヴィナス自身にも向けられた質問であることに教授は予め注意を促したが、それは次のようなものである。

report02.JPG佐藤香織氏


 すなわち、レヴィナスが存在論に対峙する際、しばしば「存在の彼方」(ギリシア語ではepekeina tes ousias)というプラトンの『国家』の一節を引き合いに出す。レヴィナスにすれば、ギリシア語ousiaに当たるのがハイデガー的な意味での「存在」であり、その彼方には善がある。しかし、他方でハイデガーもまた、ousiaの彼方を見据え、そこに「存在」(Seyn)を見ようとした。両者ともにウーシアの彼方を別々の仕方で探求したのではないか、だとしたら、その違いはどこにあるのか。
 この問いはレヴィナス、ハイデガーを論じる際には避けて通れない問いである。レヴィナス的倫理による存在論の「条件付け」が、いかに周到になされているとしても、そのような身振りがウーシアの彼方を目指す身振りとしてどのような意味をもつのかはまた別の問いとして立てなければならない。フランク氏の問いは、今後もレヴィナスとハイデガーの思想を突き合わせる者にとって課題として残り続けるだろう。

 次いで茂牧人氏(ハイデガー研究会、青山学院大学)による発表Ist ein anderes Christentum moeglich ?(もう一つのキリスト教は可能か?)が、陶久明日香氏(ハイデガー研究会、学習院大学)の司会により行われた。発表はドイツ語により行われ、フランク氏のコメント通訳は藤岡俊博氏(レヴィナス研究会、滋賀大学)が務めた。

report03.JPG左より、陶久明日香氏、茂牧人氏


 茂氏の発表は、フランク氏の著作Heidegger et le christianisme — L’explication silencieuse, PUF, 2004(中敬夫訳『ハイデッガーとキリスト教――黙せる対決』萌書房、2007)に対する、一つの応答である。茂氏はまず、後期ハイデガー思想と、「克服されるべき」ものとしてのキリスト教という問題に関するフランク氏の所論を要約する。後期ハイデガーにおける形而上学の克服は、キリスト教の克服と平行するものであるのだが、それは、ギリシア的な存在の真理をゆがめる契機として形而上学と同時にキリスト教神学もそこに含まれるからである。アナクシマンドロスの言葉における生と不正という言葉を例に取れば、本来存在の覆蔵性と非覆蔵性を意味していたものが、例えばシェリングなどにおいては、キリスト教神学を通じて、神学的な罪として解釈されてしまう。存在の用い(Brauch)というアナクシマンドロスの言葉も、アウグスティヌスが示したような、神の享受へと引きつけて理解されることになってしまう。存在の歴史における、存在理解の変遷を辿るにあたり、キリスト教的な読解の格子がどのように入り込んでいるのか、その根源に遡り、その格子の背後にある存在の真理に耳を傾けるというのが、ハイデガーの基本的な態度であり、それは明示的であるなしに関わらずキリスト教との対決となる。フランク氏によれば、キリスト教の克服は、キリスト教の外部からなされることになる
 これに対して茂氏は、この克服を初期ハイデガーが依拠した、原始キリスト教徒の時間経験から試みようとする。初期フライブルク期の講義、「宗教的生の現象学」でハイデガーは、その後の存在論の核となる生の有り様、すなわち存在の現前のあり方を、キリスト教のなかに見出だす。ここから、後期ハイデガーにおけるキリスト教の克服は、初期ハイデガーが依拠したキリスト教によってなされる、という可能性が生じる。つまり、ハイデガーにおけるキリスト教の克服は、キリスト教の外部からなされるのではなく、キリスト教の内部からなされるのだ。
 こうした茂氏の提起に対して、フランク氏は慎重な態度を示した。なによりもまず、ハイデガー思想における転回の問題がある。初期フライブルク期(1920年代)から『哲学への寄与』(1930年代半ば)まで、ハイデガー思想の展開には様々な変遷があったのであり、初期と、30年代半ばのハイデガーではキリスト教に対する立場も全く異なるし、『哲学への寄与』ではキリスト教に対する否定的立場ははっきりしている。フランク氏の上述の著作ではそれゆえ、初期講義は一切扱われていない。後期ハイデガーにおける形而上学の克服は決して、キリスト教的遺産に依拠することでなされるのではなく、むしろそれとの決別によってなされるのである。

report04.JPG藤岡俊博氏


 他方、茂氏がさらなる応答で指摘したように、後期ハイデガーは確かに、マイスター・エックハルトのようなキリスト教神秘主義の思想から多くを得ている。しかしそれでもフランク氏によれば、30年代以降のハイデガーにおけるキリスト教への否定的態度は全面的なものであるという。ワークショップ後に伺ったところ、こうしたフランク氏の判断には、未だに出版されていない資料(30年代のノート)も背景にあるようである。
 いずれにせよ、茂氏の問題提起は、ハイデガーとキリスト教を巡る微妙な問題の核心に触れていたことは確かだろう。現段階では性急な判断は差し控え、今後の資料研究が待たれる。

最後に大久保歩氏(ショーペンハウアー協会・ニーチェ部会、東京大学)による発表、The Body and Dionysus : Justice in Nietzsche(身体とディオニュソス:ニーチェにおける正義)が、梅田孝太氏(上智大学)の司会により行われた。発表は英語により行われ、フランク氏からのコメント通訳は渡名喜庸哲氏(レヴィナス研究会、東洋大学)が務めた。

report05.JPG大久保歩氏


report06.JPG梅田孝太氏

 大久保氏の発表は、フランク氏のニーチェ論、『ニーチェと神の影』(Nietzche et l’ombre de Dieu, PUF, 1998)に対する一つの応答である。「身体」と「正義」は一見無関係な二つの問題圏のように見えるが、ニーチェ思想においては、分ちがたく結びついている。フランク氏の著作は、この点に着目し、ニーチェがいかに「新しい正義」を「身体」を導きの糸にして打ち立てようとしたのかを明らかにした。大久保氏の発表はこの議論を再構成した上で、次のように問う。
 ニーチェによる正義の定義には、三つの要素がある。それによると、正義とは「価値評価から超え出て、構築し[bauend]、切断し[ausscheidene]、絶滅する[vernichtend]思考法」である。大久保氏によれば、フランク氏の解釈はこの三つの要素のうち、前二者に焦点を当てるものであり、フランク氏が正義の形而上学的・存在神学的な構成の解明に関心がある以上、そのようなアプローチは正当なものである。とはいえ、この解釈自体は、ハイデガーのニーチェ解釈に依拠しており、正義の三つ目の要素、「絶滅的」には十分な注意が向けられていない。むしろ、フランク氏にとって、正義とその他者を区別する「切断」的な側面こそ、正義という地平を構成するより重要な要素なのである。
 大久保氏は、ニーチェの初期思想に遡り、地平を形成する切断作用をアポロン的な作用に、絶滅的な側面をディオニュソス的なものに見出だそうとする。ところで若きニーチェにとって、アポロン的なものとディオニュソス的なものは表裏一体をなしており、どちらかの作用に優位が認められている訳ではない。これと同様に、正義の切断作用と絶滅作用もまた、表裏一体のものであり、フランク氏の力点の置き方に反して、この点は見逃されてはならない。実際『悲劇の誕生』の最終節でニーチェはディオュソス的なものとアポロン的なものを「永遠の正義の法」に従った「厳密に相互的対称的な比率」として特徴づけている。『生に対する歴史の利害について』を探査するなら、このことはさらに確証される。大久保氏の提言は、フランク氏の解釈からは見えてこないニーチェにおける正義思想の一貫性を浮き彫りにするものであり、正義と不正義の運動についての別の姿が確かに見えてくる。
 フランク氏が応答のなかで最も問題としたのは、いみじくも茂氏の時と同様、一つの思想の発展と断絶である。すなわち、ニーチェ思想においてもその最初期の思想と晩年の思想では断絶があり、それは「ニーチェ思想」を扱う上で無視できない。フランク氏の言葉をより正確に再現すれば、ショーペンハウアーの影響下にある20代そこそこのニーチェはまだ独自の思想家ではないのであり、その頃に示された思想と後の思想との間に一貫性を見出だすことには大きな困難が生じる。

report07.JPG渡名喜庸哲氏


 若きニーチェが影響を受けたショーペンハウアー思想は、世界を意志の表象と見る、いわば意志の一元論であった。しかし、このような一元論には、二つの哲学的困難が生じる。1. もしすべては一つの意志だとしたら、意志とは一体何を意志しているのか? 2. 一つの意志はどのように物質に作用するのか?
 このような困難に対し、ニーチェは、意志は意志に作用するのであり、それゆえ、意志は複数ある、と考えた。永劫回帰の思想に到達したニーチェはこのようにしてすでにショーペンハウアーを乗り越えており、ここに若きニーチェとの連続性を見ることはできない。ニーチェが望んだのは形而上学的(キリスト教的)価値体系を身体というものによって根底から覆すことであり、「人間」によって作られたあらゆるカテゴリーを身体によって解体することである。これはフッサールが現象学的還元によって成そうとしたこととある意味では平行する「脱人間化」という作業である。

第二部はディディエ・フランク氏の講演会 L’impression de l’intentionnalité(印象の志向性)が馬場の司会により行われた。質疑応答通訳は小手川正二郎氏が務めた。

report08.JPG小手川正二郎氏


 講演の内容は、フッサールの『内的時間意識の現象学』における、時間意識の本質をめぐる命題、「感覚すること、われわれはそれを時間の原的意識と解している」、「感覚とは時間を現前化する意識である」についての非常に詳細な注解という体裁を取っている。
 時間的対象の一例となる、流れ行く「メロディー」についての意識は、他のあらゆる対象と同じように単純な対象ではない。時間的対象は、現在・過去・未来という経過様態により特徴づけられ、それは単なる点的な現在が未来から過去へと流れさるのではない。点的な今を想定することが一つの「抽象」作用なのである。フランク氏の解釈は、フッサールのテクストに密着しながら、「抽象」することなしに時間意識のあるがままに迫ろうとするものである。
 「今」についての意識があると素朴に考えるなら、「今」という感覚作用がまずあり、それが原印象(Urimpression)として過去へと過ぎ去ってゆくはずだ。しかし、上述の抽象化作用を考慮に入れるなら、原印象それ自体がそれについての把持との相関関係のなかで初めて現出するのでなければならない。単独の今や、単独の原印象は存在せず、原印象の〈今〉はそれを把持する〈今〉との志向的関係のなかにあるのである。流れさる〈今〉と捉えようとする〈今〉という経過の構造のなかで初めて〈今〉が語られうるのであり、この時間構造から独立に〈今〉を想定することはできない。
 フッサールのテクストと、それが問題にする事象そのものに密着しながら、フランク氏の講演は印象の志向性を明るみに出した。質疑応答では、この内容を受け、後期フッサールやフランス現象学に関する質問がなされた。今回のいつもながら厳密な読解が果たしてどのような哲学的意図のもとになされているのかが、これらの質問を通じて明らかになった。すなわち、レヴィナス、アンリ、さらにはデリダにおいてしばしば〈今〉や原印象があたかも非依存的な時間的対象であるかのように扱われるのに対して、フッサールの講義に従えば、さらには事象そのものの厳密な検討を経るならば、こうした時間の扱い方は不適切であり、さらには事象に即していないのである。


report09.JPG

 他にも、時間論と歴史性との関係など、多岐にわたる質問が提起され、熱を帯びた議論は予定時間を超過して続けられた。

 三研究会合同ということもあり、当日は70人を超える盛況となった。参加人数が主催者側の予想を上回り、配布資料が不足し幾人かの来場者の方にご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げたい。
 ワークショップでは英独仏と日本語の四カ国語が使用され、フランク氏との質疑応答に際しては、レヴィナス研究会の面々に逐次通訳でご活躍頂いた。彼らの的確な通訳なしには、こうした実りある議論は成立しなかっただろう。通訳を務められた佐藤香織氏、藤岡俊博氏、渡名喜庸哲氏、小手川正二郎氏、加えて、小手川氏とともにフランク氏の講演原稿を共訳してくださった村上暁子氏には深く御礼の念を申し上げる。
 また、かつてフランク氏のもとで学んだ服部敬弘氏、柿並良佑氏にも、氏とのスケジュール調整などにあたり、お世話になった。ここに御礼を申し上げる。
 今回、上述の発表者と司会の方々、およびハイデガー研究会の齋藤元紀氏、ニーチェ研究会の竹内綱史氏のご協力なくしてはこれほどの規模のワークショップは成立しなかった。皆様の参加・協力に心から御礼申し上げる。

報告:馬場智一(CPAG)

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