梶谷真司「邂逅の記録59:「お金」をめぐる哲学対話(2) 哲学的テーマとしてのお金」
2013.12.16 「お金」をめぐる哲学対話(2) 哲学的テーマとしてのお金
カフェフィロの廣井さんによると、これまで哲学対話の機会にお金が話題になることもあったが、そうなると決まって「汚い」「品がない」などの理由で、すぐに話が打ち切られ、みんなで考える場がもてなかったという。それで今回の企画となったわけだが、確かにお金というのは、日常的には、あまり好んで語られず、哲学で取り上げることがあっても、資本主義との関連で原則論のレベルで批判的に取り上げるくらいだろう。そう、いずれにせよ、お金は否定すべきものなのだ。
もっともこれには地域差もある。関西は「儲かりまっか?」が挨拶と言われるほど(もちろんこれは誇張で、商売人でない限りそんなことはめったにない)、お金の話が好きである。私自身、学生時代から16年ほど関西で生活したこともあり、お金を汚いとか下品だとは思わない。関西人は、とりわけ値段の話をするのが好きである。それも、いいものをいかに安く買ったかの自慢である。相手がもっているもの、とくに新しい服や持ち物の値段を相手に聞くのは、ほとんどマナーですらある。こちらが聞かなければ、「聞いて聞いて!これいくらやった思う?」となる。だから、関東の人がその手の話を極力避けたがるのを見ると気取っているように感じる。
とはいえ、いくらお金について好んで語ったとしても、それが哲学的なわけではない。そもそも、哲学的にお金について語るとは、どのようなことを言うのだろうか。それも、難しい理論についての予備知識なく、だれでも参加できる語り方とはどんなものだろうか。基本的には、哲学対話の手法でやれば、おのずとそれはできるわけだが、せっかくだから、お金についての新しい捉え方を知った上でのほうが、議論に広がりが出るだろうと考え、影山さんにお話しいただいたわけである。
当日、影山さんの講演と質疑応答の後、対話のセッションでは、まずお金について疑問に思っていることを参加者から出してもらった。すると、「楽をして儲けるとなぜ批判されるのか?」「お金と社会的地位はどう関係するのか?」「お金を持っていることと稼ぐことはどう違うのか?」「お金を粗末にすると罰が当たるのか?」「毎月定期的に入ってくるお金はなぜ魅力的か?」「お金が人間関係に与える影響はどんなものか?」「お金を持っていると異性にもてるのか?」「お金がなければ生きていけないのか?」など、次々といろんな問いが上がった。いずれも、身近でありながら、哲学的な問題へと接続可能なものが多かった。
こうして上がった数々の問いの中から、例によって投票で選んだ。すると次のようなものに票が集まった―― ①お金があったら幸せか? ②お金は流れないといけないか? ③自分のお金は自分で稼ぐべきか? ④お金が人間関係に与える影響は? ⑤お金にはどういう意味があるのか?――その日はスタッフを合わせて50人ほどの参加者だったので、4つのグループに分かれ、それぞれでこの5つの中からさらに投票で選んで対話を行った。⑤を選んだのが2グループ、①と④がそれぞれ1グループずつだった。
どのグループでもそうだが、お金について語りつつ、結局はもっと広い価値観、人間関係のあり方を問題にしていた。たとえば、私のいたグループでは、「お金があったら幸せか?」という問いで話をしたが、お金と幸福の関係は、当然何にどれだけお金を使うのかという価値観の問題でもあるし、またお金があることでできることの選択肢が増えることを考えれば、それは自由の問題とリンクする。お金を使うことで人や物との関わりができるということは、それはどのように、何をしてどんな人と一緒に生きるのかという生き方の問いになる。こうしてとかく抽象的・一般的になりがちな、幸福論、自由論、人生論も、お金を軸にすることで、一気に具体的で個々人に根差した話になる。
そのなかでも、最後の全体討論で話題になったのは、「おごる」という行為である。どういう場合に、誰に対しておごるのかという問題には、上下関係や性別など、社会的な身分や人間関係の差、それに対する個人的・社会的な捉え方が潜んでいる。しかしまったく対等な、友だちどうしの間であってもおごる場合がある。それは、「おごる」ことで、緩やかな「貸し借り」の関係ができ、次の機会をもつこと、将来への関係継続の意思がこめられるということでもある。逆に「割り勘」は、関係をそのつど清算することでもある。いずれにせよ、「おごる」か「おごらないか」は、人間関係への問いでもある。こうして図らずも、「おごる」というまったく日常的で個人的な行為を通して、「人と人をつなぐ」という、先に投資のところで明らかになったお金の本質があらためて浮き彫りになった。
前回の「母」に引き続いて、今回も「お金」という一般には哲学と縁の薄いテーマを取り上げたが、対話を通しておのずと哲学的問いへと導かれていった。そして各々が様々な問いを新たに持ち帰ったのではないかと思う。哲学対話のポテンシャルをさらに強く確信する機会となった。