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梶谷真司「邂逅の記録58:「お金」をめぐる哲学対話(1) 人と人をつなぐもの」

2013.12.15 梶谷真司, Philosophy for Everyone

2013.12.14 「お金」をめぐる哲学対話(1) 人と人をつなぐもの

「お金」というのは、私が哲学対話を始めた時点で、いつか取り上げたいと思っていたテーマであった。今日、私たちは、お金と無関係に生きることはできない。どんなに清貧で無垢であろうとしても、どんな信念をもって拒絶しようとしても、そのことは変わらない。お金がなければ、必要なものも手に入らず、人付き合いも限られてくる。「一人前」として認知されるのは、経済的な自立による。死んだ後ですら、葬儀や遺品や遺体の処理など、すべてお金がかかる。お金が「命の次に大事」というのは、決して誇張ではない。

とはいえ、どのような視点からお金を捉えればいいのか。お金について、普通とは違う切り口で語ってくれる人がいないかと思っていたところ、カフェフィロ東京の廣井泉さんからの紹介で、影山知明さんに来ていただくことになった。影山さんは、外資系の経営コンサルティング会社、ベンチャー投資会社を経て、現在はクラウドファンディング会社をし、国分寺市で地域通貨の導入に関わりつつ、「クルミドカフェ」という喫茶店の店主をしている、という異色の人物である。グローバルとローカルの間でお金に関わり続けている人が、どんな話をしてくれるのか、それ自体が興味深いことであり、その彼の話を聞くことで、お金について新たな視点から語れるのではないか、そんな期待をしていた。

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クラウドファンディングは、インターネット上で行われる小口の投資である。影山さんの話の中に出てきたのは、「ふるさと投資」と「被災地応援ファンド」の2種類である。いずれも事業に賛同・共感した人が直接投資をするシステムで、金額的には一口1万円から5万円程度。影山さんの運営する会社では、もともとミュージシャンの音楽活動(CDの制作など)をファンが支援するものとして誕生した。その後、音楽以外でも、酒造や林業など様々な分野の事業に拡大した。他方、「被災地応援ファンド」は、「ふるさと投資」と同様、賛同する事業に直接投資するものであるが、投資金額の半分が最初から寄付に回される。金銭的な利益の点から言えば、損失(それもいきなり半分になる!)から始まる、従来の常識からは考えられない投資である。こんな投資をする人がどれだけいるのかと思うが、2年で10億円を突破した。

いずれも、事業の応援が主な趣旨であり、また一口当たりの金額が小さいため、投資家のほうに利益追求の動機が弱い。それゆえ銀行からの融資より返済期限が長いこと、1年から5年、長いものは10年になる。仮に元本割れしても、苦情が出にくく、別の形での返済(製品や何らかの特典)が可能である。また、株とは異なり、会社全体に対してではなく、個別の事業に対する投資であるため、会社の経営の自立性が保たれ、株主によって経営方針が左右されたり、経営権が脅かされたりする心配がない。会社が自らのポリシーに従って安定的に事業を継続できる。

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こうしたビジネスに携わる影山さんにとって、お金とは、人と人とを結びつける媒体である。もちろんお金はcurrencyという語で表されるとおり、世の中に流通するものであり、そうすることで世界を結びつける。けれどもそれは、不特定多数の人たちである。他方、影山さんがこだわるのは、「特定多数」である。「不特定多数」は無際限の顔の見えない関係で、これは通貨やマスメディアによって成立する。その反対である「特定少数」は、個人的な生活圏の中で成立する顔の見える関係である。「特定多数」は、その中間に位置する。すなわち、個人的な活動や動機に基づきながら、広範囲に成立する限定された関係である。それを可能にするのが、クラウドファンディングという、インターネットを通して個人と個人を結びつける投資であり、その両端にあるのが事業者の志と投資者の共感である。これによって、人々はお金を媒介として、間接的にせよ個人どうしの顔の見える関係を構築できる。貨幣じたいは均質な媒体であるが、それが事業の多様性と個人の価値観の多様性を結びつけるのである。

けれども、(とくに被災地応援ファンドの場合)なぜ寄付ではなく投資なのか。寄付のほうが、相手が返済する義務がなくてよいのではないか。そこで影山さんが言うのが「健全な負債感」という考え方である。寄付というお金は、その場限りの一時的な、しかも一方的な関係である。それに対して投資というのは、継続的な関係を生み出す。投資した人はその事業に関心を持ち、見守る。事業者はそれに応えるべく努力し、折に触れ、現状を報告する。直接顔見知りの関係ではないが、お金を通して期待と信頼によって長期にわたって結びつくのである。

影山さんが国分寺で行っている地域通貨の活動も、そうした発想に通じている。この通貨「ぶんじ」は、100ぶんじ=100円ほどの価値を持つものとして使うことができるが、それは大体の目安にすぎない。むしろ重要なのは、これが人にお礼を言いたい時に渡したり、不動産屋が新たに町に引っ越してきたときに歓迎の印としてプレゼントしたり、何かしら気持ちを伝える時に一緒に渡すという点である。そのため、裏には一言メッセージを書く欄が7つほどあり、そこにみんなが言葉やイラストを描いて相手に渡す。たんなるメッセージカードは、プライベートなものなので、個人どうしの間で一回やり取りされるだけだが、これは貨幣としての性格を持っているため、それぞれの思いを載せて社会の中を巡っていく。

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こうした一連の活動を通して影山さんは、社会における〈利用し合う関係〉を〈支援し合う関係〉へと転換しようとする。それは利害によって結びつく社会から、気持ちによって結びつく社会への転換でもある。興味深いのは、それがお金という、むしろ気持ちとはしばしば矛盾すると思われるものによってなされる点であろう。資本主義は非人間的であるかのように言われるが、流通という本性は、人と人をつなぐというきわめて人間的な特性ももっている。

おそらく問題なのは、お金そのものではない。重要なのは、お金を私たちがどのように位置づけ、どのようなシステムを作るかである。私たちは、お金の支配する資本主義の世の中を、お金を通して変えられるのかもしれない。影山さんの話はそんな希望を与えてくれた。

(続く)

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