【報告】P4Eワークショップ:「お金」をめぐる哲学対話
11月2日の土曜日、“「お金」をめぐる対話”をテーマに、哲学対話のワークショップが行われた。この日はゲストとして影山知明氏をお迎えしワークショップの前半でご講演いただいた。後半では、梶谷先生のファシリテーションによる「お金」をめぐる哲学対話が行われた。
当日は、46人もの参加者が「お金」について考えるために集まった。ビジネスマン、学生、母親、そして子どもまで、非常に多様である。冒頭で梶谷先生は「哲学対話はどんなテーマでもできる」ということを強調された。このことは単純に内容を選ばないというだけではなく、どのようなテーマであってもそこに関わるべき人が限定されないということが含意されている。それゆえ哲学対話では、様々な立場にある人たちが一堂に会し、ともに考えあう場を作れるのだ。
ワークショップの前半では影山氏より「お金ってなんだ? ~お金が見えると、社会が見える~」というタイトルでご講演をいただいた。影山氏は現在、西国分寺にてカフェ「クルミドコーヒー」の店主を務めながら、国分寺の地域通貨「ブンジ」プロジェクトや被災地応援ファンドの運用を通して、「非金銭的な価値」の交換を可能とするお金の流れのデザインに取り組んでいる。
さて、「お金」といえば、一般的に良くないイメージが抱くことが多いのではないだろうか。影山氏と本ワークショップのつなぎ役を果たしてくれたカフェフィロ代表の廣井氏は、哲学対話の場においてさえ「お金」に関する話はタブーとして扱われると報告してくれた。お金は汚くて、悪。それ以上のことについては話すことができない雰囲気があるという。影山氏の講演は、こうした認識が席巻する中において「お金」をどのように考えればよいのかということについての、一つの応答であった。
まず影山氏は社会を「交換の集合体」と定義し、そこでのお金の機能を整理した。物々交換によっても社会は成り立つが、お金を媒介とすることでより摩擦のない交換が行われ、距離的・時間的に直接会うことのできない人ともコミュニケーションできるようになる。つまりお金には「交換の集合体」としての社会の動きを活発にし、時空間的に拡張する機能が備わっている。
影山氏はこうしたお金の機能を生かしながらも、そこに新たな意義づけをするために様々な試みを行っている。今回の講演ではそうした試みのうちの二つである地域通貨「ぶんじ」と被災地応援ファンドが紹介された。
国分寺市の特定の店舗で利用可能な地域通貨「ぶんじ」には、私たちが普段使っている紙幣とは大きく異なっている点がある。それは「ぶんじ」が利用者による書き込みを歓迎する点である。実際に使われている「ぶんじ」には、利用した店舗への感謝の言葉から似顔絵まで、様々な書き込みがされている。「お金」は本来、交換関係にある相手との信頼関係の形成を簡略化するという機能があるが、それゆえに相互に「利用しあう関係」が形成されやすい。一方で、「ぶんじ」の書き込みは、「気持ち」を伝えるために行われるものである。つまり、「ぶんじ」はお金としての機能を残しつつも、そこに交換の動機や感謝のような価値的側面をも表現することが可能なのである。「ぶんじ」の交換は、「利用しあう関係」ではなく「支援しあう関係」の醸成を意味する。このように、交換の意義づけや性格を変えることが、交換の集合体である社会を大きく変えることにつながると影山氏は述べる。
さらに影山氏はこうした試みを理想論で終わらせないために、自分の思いを貫くことと、経済的に生活を成り立たせることの間で自己矛盾に陥らないような「お金」の位置づけ方を提案する。それが具体化されているのが影山氏らの運用する被災地応援ファンドだ。このファンドでは金銭的なリターンだけを価値軸とするのではなく、それを補ってあまりある社会的なリターンを共有することが重視される。そのために影山氏は「特定多数」、つまり顔の見える関係の中で、多様な価値が交換される状況を描く。お金に付与された社会的な価値を、現実の社会の中でいかに実践するのか…、影山氏の実践に裏打ちされた言葉は確固たる強度を持っていた。
ワークショップの後半は「お金」をテーマとして哲学対話が行われた。なるべく性別や年齢が重ならないように気をつけながら全員が四つのグループに別れた後、「お金」に関する問いが参加者らから集められた。ホワイトボードに書きだされた問いを、より広く共有するために問い同士の関係が吟味された。最終的には次の五つの問いが作られた。
①お金があったら幸せか?
②お金は流れないといけないか?
③自分のお金は自分で稼ぐべきか?
④おカネは人間関係にどういう影響を与えるか?
⑤お金にはどういう意味があるか?
それぞれのグループで対話の入り口となる問いが決定された。①と④を選んだのはそれぞれ1グループ、⑤は2グループによって選ばれた。それぞれのグループではファシリテーターのもと様々に対話が繰り広げられた。
私が参加したグループで選ばれた問いは「⑤お金にはどういう意味があるか?」であった。対話の序盤では、ある参加者の方がお持ちだった、今はもう使われなくなった(しかし当時は恐ろしく価値の高かった)紙幣が話題に上った。一人ひとりが実際に紙幣を手に取りながらお金の意味について発言する場面もあった。哲学対話では、一人ひとりが実感に基づいた言葉を扱うことで探究を進めていく。ともすれば経済学の用語をちりばめて語った気になりがちな「お金」というテーマを考える上で、まず紙幣を手にとって考えていくということの有効性に気づかされる、印象的な場面であった。
約1時間半のグループセッションの後、全体セッションが行われた。46人の参加者とファシリテーターが全員で大きな一つの円を作り、まずはそれぞれのグループで話し合われた内容を全体に共有した。
一つ目のグループではお金があることによって得られる幸せを、選択肢の広がりと結びつけるところから始めた。しかし選択肢が多いことで生まれる不利益もある。さらに、お金がない場合はどうなのか、どの程度あればいいのかということが話し合われた。そして最終的に、どのようにお金を使えば幸せなのかということを考えるうえで欠かせないものとして、「人との関わり」という論点が導かれた。二つ目のグループでは、お金を価値判断の基準の重ね合わせとして理解していくとともに、その使い方や受け取り方が話し合われた。三つ目のグループでは、お金の持つ額面通りの価値と、コミュニケーションツールとしての価値の関係が、割り勘・おごり・愛情としてお金を受け渡す行為などの具体的な事例とともに語られた。四つ目のグループでは、お金がある一つの価値基準を示すがゆえに、それ以外の価値が捨象されるという事態について話し合われた。一方で、お金の示す価値が限定的であるがゆえに、それ以外の価値が浮かび上がるのでは、という指摘もあった。
以上を踏まえて、全体での哲学対話においては、「おごる」という具体的な行為をめぐる語り合いの中で、お金のやり取りと人と人との上下関係のルールとの連関が浮かび上がってきた。そこでは、既存の関係性を表してしまうものとしてお金が捉えられるだけではなく、同時に、お金のやり取りについてのルールを破らないように気を付けながら他者と接する人間関係の在りようが話し合われた。また、「おごる」という行為が、「お金」自体を交換しない他者との気持ちの受け渡しとして行われているということは、私にとっての発見であった。
ワークショップの最後に、梶谷先生は参加者のみなさんに、「お金」について哲学対話をしたことについての感想を求めた。参加者の方からは、「お金」について語っているようでお金の周辺や自分自身について語ってしまうことの面白さや、こうしてお金を根源から考えることで、これまで隠されていたことが話されていくという快感があるという意見も出た。哲学対話自体の来歴について興味を持つ方もおり、哲学対話という手法を用いることの深みや有効性を感じ取った方も多いのかもしれない。
私自身も、普段は話題に出さないような事柄について、ゆっくりと実感に基づきながら考えを深めることができた。今回は最終的に「おごる」という事例を軸に対話が進んでいったが、さらに語り合う中で、貨幣や紙幣として手元にあるお金の枠を超えた問いが導かれるような予感を覚えた。
こうして、対話が終わった後も問いは生まれ続ける。そこに影山氏の目指す「非金銭的な価値の交換」が与えてくれるヒントも多いであろうし、私たちは今や問いを深めるための手段を手にしている。今度は私たち一人ひとりがその問いを大切に育てていく番だ。哲学対話の後の、お楽しみである。
(報告:宮田舞)