【報告】James Heisig "An East-West Philosophical Antiphony on Nothingness and Desire"
2013年12月4日、宗教哲学者のJames Heisig氏の講演会が駒場101号館で開かれた。Heisig氏は京都学派の研究、また南山宗教文化研究所で1991年から2001年まで所長職にあったりと、日本との関係も深い。今回のUTCPでの講演は、近著Nothingness and Desire: An East-West Philosophical Antiphony (Univ. of Hawaii Pr, 2013)における氏の新たな展開が紹介された。
Heisig氏は、まず「私はどのように哲学的に根本問題を立てることができるか」と問う。これは「ヘーゲルやカントはどのように……を立てたか」という哲学史でも、「我々はいかにして……」という方法論でもない。その強調点は「私」にある。Heisig氏にとって哲学的な問いとは「私が信じるもの」と「私が信じさせられているもの」を批判的に峻別することなのだという。
「私が信じさせられてきたもの」とは、言いかえれば「習慣的思考」である。しかし、「私が信じるもの」も、容易に習慣に変わりうる。なぜなら、私たちは常に確信certitudeに従って生きており、それは日々の暮らしに、コミュニケーションに欠かせないからである。だが、なかには危険な習慣的思考がある。それらを意識的、批判的に、必要なfictionと危険なdistractionとに選り分けねばならない。近著では、この批判的問いの対象に「自我」「神」「倫理」「所有」の4つが選ばれている。
しかし問いの「対象」を設定すれば、そこには「客体」を見る「主体」が持ちこまれていないか。Heisig氏もそれを認める。哲学的批判における主体とは、未来には破棄されるかもしれないが、ともあれ必要な「偽りmake-believe」なのである。言い換えれば、主体は常に選択的であり、部分的である。そのことに意識的であらねばならない。
Heisig氏は、自身の哲学のスタイルをantiphonyと呼ぶ。antiphonyとは教会の応答頌歌のことだが、Heisig氏の場合には東洋と西洋という2つの世界が、ともに問題に参与するあり方を指している。近著では、desireとnothingnessの2つが、主体と客体を構成するpoleとして用いられており、その基本的なアイディアは次のようなものである。すなわち、主体にとってのdesireは、西洋ではwillと並んで重要な柱であるが、東洋では否定される。一方、being(存在)すなわち客体世界を東洋はnothingnessと見るが、西洋ではそれを価値否定的(ニヒリズムのこと?)として拒絶する。しかし両者は、実は対話的関係を構成しうる、というのである。おそらく、純粋なdesireをもつ主体としての神と欲望なき東洋的なno-selfが、また西田幾多郎が西洋的なbeingに当たるものとした「絶対無」と、絶対的存在である神が、それぞれ何らかの関係を持つとされているようだが、これらの点は十分に展開されなかったため、聴衆には理解しづらかったと思われる。また「倫理」や「所有」概念については、desireとnothingnessによってどのように東洋と西洋が対比されるのか、についても説明されずに終わった。
質疑応答では、小林康夫教授から、nothingnessは客体ではなく主体の論理ではないのか、と問いが出された。Heisig氏もそれに賛同しつつ、例えばdesireを主体でなく客体の側に置くこともできる、desireとかnothingnessとは、guiding fictionsであり、それを通して自我や神を問う「レンズ」のようなものだ、と回答した。講演内容は高度に抽象的で、説明も難しかったが、質疑応答を通じてHeisig氏のアイディアの方向性が少しは見えたように感じられた。
(文責:杉谷幸太)