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【報告】L2プロジェクト 共生のための障害の哲学 第12回研究会 作業療法学と「障害受容」の問題―田島明子『日本における作業療法の現代史』をめぐって―

2013.11.19 石原孝二, 西堤優, 共生のための障害の哲学

2013年10月20日、共生のための障害の哲学第12回研究会「作業療法学と「障害受容」の問題―田島明子『日本における作業療法の現代史』をめぐって―」が東京大学駒場キャンパスにて開催されました。この研究会では聖隷クリストファー大学の田島明子氏をお招きし、彼女の著書である『日本における作業療法学の現代史』を話題の中心に据えご講演頂きました。また、東京大学大学院総合文化研究科准教授石原孝二氏と日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)の景山洋平氏にこれに関連した御発表を頂きました。

以下、景山洋平氏の報告です。 (ここまで西堤)

2013年10月20日、東京大学駒場キャンパスにて、共生のための障害の哲学第12回研究会「作業療法学と「障害受容」の問題―田島明子『日本における作業療法の現代史』をめぐって―」が開催された。基調講演者として聖隷クリストファー大学リハビリテーション学部准教授田島明子氏をお招きし、また氏の講演に応える形で、東京大学大学院総合文化研究科准教授石原孝二氏と、私こと日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)の景山洋平が報告・問題提起を行った。

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田島氏の講演「日本における作業療法の現代史― 対象者の「存在を肯定する」作業療法学の構築に向けて ―」は、今年出版された氏の同名の新著を下敷きにしたものだった。前半部分では、1990年代以前の日本のリハビリテーション研究で非常に有力な言説であった「障害受容論」の概要を説明しつつ、障害受容概念がリハビリの現場でセラピストに都合のいいように使われてきた現状を実地調査をもとに提示された。元々、障害受容概念は、日本のリハビリ学の泰斗の一人である上田敏が、価値転換論や段階論など欧米の先行諸研究を統合する形で日本に広めたものである。それによれば、受傷した人間は、ショック期・否認期・混乱期・努力期・受容期の段階を経て、最終的に、ハンディキャップを自らの個性として受容するに至るのであり、これがリハビリの全人的な意味でのゴールであるとされた。これに対し、田島氏は、この一見分かりやすい議論が、実際には、クライエントがリハビリの目標に到達しない場合にセラピストが抱くフラストレーションの表現になってしまっている事を示した。後半部分では、日本の近年の介護法制の変化 ― 維持期・慢性期のリハが医療圏外に追いやられた事 ― を捉えて、この趨勢が、クライエントの「能力価値」にもっぱら着目して、その「存在価値」を蔑ろにした「倒置」になってしまっている事を主張し、これに対して、対象者の「存在価値」をありのままに肯定する作業療法学の必要性を主張した。能力価値と存在価値の倒置とは、例えば、クライエントが抱く就労希望を、まずあるがままに肯定することもせずに、「あなたにはその能力がないんだから」と否定するような事態だが、田島氏は、この倒置が、今日まで展開したリハビリ学・作業療法学の問題点だとするのである。これに対し、田島氏は、自らの臨床経験を紹介しながら、作業療法の本来的な目的が、クライエントや周囲の家族などがリハビリの「作業」を通じて本当に当人らしいあり方を取り戻していく事にあるのだと主張し、この点を理論的に明確化する事こそ今後の作業療法学の課題であるとした。

石原氏の講演「障害を『受容する』とはどういうことなのか」は、家族当事者の観点から「障害受容」概念とその問題点を指摘した。様々な論点が提起されたが、それらを導く経験的な実感は、障害受容というただ一語で、当事者や家族当事者が障害に向かい合う極めて複雑な過程を片付けられてしまう事への違和感である。また、「受容」といっても、医療関係者との情報格差がある中で障害をどのように理解するかなど多様な水準の違いを区別すべき事や、更に、医療上の付き合いに過ぎないセラピストにそもそも「人生の意味」について語って欲しくないという家族当事者としての率直な違和感などが提起された。

私の講演「存在価値と能力価値のバランスに関する現象学的問題」は、田島氏が打ち出した《存在価値の肯定》という論点を受け止めた上で、そこに「能力」を再びどのように接続すべきかを検討したものである。この点が必要なのは、作業療法の「作業」は、機能回復を専らの目的としない場合でも、それ自体は「能力」の発現だからである。田島氏自身も実際の臨床経験の分析では存在価値と能力の発現が結び付いている事を確認している。私は、そこから存在価値と能力価値の《バランス》を理論的に検討すべきだと指摘し、この点に対してどのような現象学的分析が可能であるかを概要として示した。

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当日は悪天候だったが、現役の作業療法学研究者・作業療法士を初めとして、リハビリの現場で活躍されている方々が来場されて、活発な質疑応答が為された。従来、哲学(特に石原氏と私の専門である現象学)は、看護学や精神医学との接点は非常に多かったものの、作業療法学とのコミュニケーションは単発の講演・論文を除けばほぼ皆無であった。しかし、作業療法学の文献を調べれば現象学への関心が日本に限らず諸外国でも芽生えている事は明らかだし、逆に、現象学の側でも主体的な身体運動や人生全体の統合 ― 「障害受容」概念を巡って問題になり得る主題群 ― について観念的考察の域を脱する為には作業療法学は不可欠な対話相手でないかと思われる。田島氏を招聘した今回の研究会によって、現在の空白状況を脱して、新しく知を創造する為のヒューマン・ネットワークが形成されたならば、これ以上に幸いなことはない。最後に、遠方よりお越しいただき素晴らしいご講演をしてくださった田島氏に重ねてお礼申し上げます。

(報告者:景山洋平)

この研究会では最初に、田島明子氏によって、上田敏氏が日本に導入した「障害受容論」の紹介がなされ、これを皮切りに「障害受容」とは何かを中心に据え会が進められた。私は今回の研究会を通じて初めて障害受容という概念をその歴史的変遷を踏まえ学ぶことができた。特に興味深かった点は、当初、上田氏が想定した障害受容とは、障害当事者が如何に自分の障害を受容するのかという障害当事者を立脚点にしたものであったものの、そのような障害受容の概念が、障害当事者のみならずその当事者の周辺にいる人々(作業療法士や障害当事者の家族など)を巻き込むことによって、どんどん変化・拡大しているのではないかと思わされた点である。

私はこの研究会における発表や質疑応答を通じて、障害受容という概念を社会実践的に役立てるためにも「誰が誰の障害を受容するのか」ということに注目し、分類・明瞭化する必要があるのではないかと感じられた。なぜなら、障害を受容するといっても、それが障害を持つ本人なのか、その家族なのか、それとも社会なのかで、その受容の中身は異なってくるだけではなく、その受容プロセスまで大きく違ってくるのではないかと感じられたからである(もちろん、「誰が誰の“どのような障害”を受容するのか」ということも、分類作業として極めて重要であることは間違いないだろう。だが、それは「誰の障害を受容するのか」の一つの局面であるのではないかと思われる)。実際、私が知らないだけで障害受容という言葉を実践的に用いる人々の間では既にこのような取り組みがなされているのかもしれない。いずれにせよ今後この概念が障害受容にかかわる実践の場で得られたことを吸収することによってさらに洗練され、それによって障害当事者や障害当事者家族にとってより暮らしやすい社会を構築するための一助となることが望まれる次第である。

(報告者:西堤 優)

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