【報告】フランソワ=ダヴィド・セバー講演会「リオタールの耳に残るレヴィナス」
去る9月24日、フランソワ=ダヴィド・セバー氏による講演会Levinas dans l’oreille de Lyotard(リオタールの耳に残るレヴィナス)が小林康夫(東京大学UTCP)の司会で行われた。
セバー氏はレヴィナス、アンリ、デリダなどフランス現象学の巨人たちを鮮やかに論じた博士論文『限界の試練――レヴィナス、アンリ、デリダと現象学』(合田正人訳、法政大学出版局、2013年)を代表作とする、フランス現代哲学の気鋭の研究者である。国際哲学コレージュのプログラム・ディレクターとして活躍後、現在コンピエーニュ工科大で教授を務める。
今回の講演は著書の出版にともなう一連の講演の一環をなしており、報告者は24日に先立ち明治大学で行われたレヴィナス、デリダ、リオタールに関する講演を聴講したが、今回の講演「リオタールの耳に残るレヴィナス」はその延長線上で、リオタールによるレヴィナス読解の特性を浮かび上がらせつつ、その手さばき自体が思考のリズムを刻む、独自の哲学スタイルを感じさせるものだった。
リオタールは、日本では一般にポストモダン思想家として紹介され一定の受容がなされた。他方、レヴィナスは、ポストモダンの喧噪が鳴り終える頃、倫理の思想家として広く読まれるようになった。そのためか、リオタールとレヴィナスの関係はほとんど注目されてこなかったと言ってよいだろう。
ところが、リオタールがかなり早い時期からレヴィナスの読者であったことは、一部には知られており、報告者もまた、博士論文提出後に合田正人氏からそのことを指摘され、研究課題の一つとしてきた。セバー氏の今回の講演はこの関係に光を当てるものであり、その内容は実に明解なものであった。
その主旨は講演題目に含まれている。「リオタールの耳に残るレヴィナス」という題目は、それを的確に伝えるために入念に言葉を選んでいる。講演は――敢えて平板な表現に変えてしまうなら――「リオタールにおけるレヴィナス受容」を問題にしているわけだが、「耳」がその受容を代表する器官として選ばれているのである。
レヴィナスが生涯自身を「現象学徒」であると規定していたことはよく知られている。ところがレヴィナスの著作を読むと、視覚的な現象には還元できない要素が含まれている。現象はその基底に、何かについての意識――そしてこれは確固とした主体の意識でもある――が前提とされるが、とりわけ後期のレヴィナスは、この主体の主体性が解体し、他者からの呼びかけにより自我中心性を失うさまを渾身の筆力をもって描こうとしている。この他者からの呼びかけ――しばしば「汝殺すなかれ」(tu ne tueras point)によって代表される――を「聞く」のは「耳」である。しかし、ある種のトラウマのように到来する他者の声は、まず視覚に支えを持つ意識の現象からは逃れる「非」現象であり、さらには聴覚によって捉えられる物理的な空気振動ではないゆえに、外界の物理的作用の感覚器官における受容でもない。「耳」がとらえるのは優れた意味で非現象、非存在、非世界、非身体的な領域に属する。
レヴィナスは、一方で現象学者として世界の中に足場をもちつつも、こうした世界を逃れる非現象的経験を、現象学的方法を徹底化しながら捉えようとする。レヴィナスのこうした現象学の徹底化はかつてドミニク・ジャニコーによって、現象学の神学的転回の一つに数えられた。神学的転回を担う主要哲学者のなかには、ジャン=リュック・マリオンの名も挙げられていたが、セバー氏の発表は、マリオンのレヴィナス受容とリオタールのレヴィナス受容を見事な対照性のうちに捉えるものだった。すなわちリオタールは、レヴィナスにおける非現象的、非視覚的、非存在的側面をさらに徹底化することによってレヴィナス思想を継承したのであり、マリオンは、逆に現象的側面、視覚的側面、存在的側面を過剰なまでに徹底化する(Cf. 飽和現象(phénomène saturé))ことによって継承したのである。
セバー氏の鮮やかな手さばきは、マリオンとの対照に留まらない。リオタール自身には、実のところこうした聴覚的、倫理的な形象と対照を成すように、視覚的、欲望的な形象が存在する。前者を代表するのが「ユダヤ教」であり、後者が「異教」である。報告者の関心からは、この問題は大変に興味深いものであったが、講演の主題からは逸れるため、セバー氏は問題の図式を素描するに留めておられた。
最後に、こうしたある意味では意識的に一面的なリオタールによるレヴィナス受容の意義について、セバー氏は、レヴィナス自身のなかにある聴覚的なものへの、非存在への、非現象へのある種過剰な傾向に対して注意を向ける契機として積極的に評価されていた。
これに対し、報告者は特定質問者として若干のコメントと、議論の口火となる質問を一つだけ提起した。リオタールとマリオンにおけるレヴィナス思想の二つの継承の仕方は、セバー氏も述べていたようにレヴィナス思想そのものに内在している可能性である。リオタールにおける受容はそのうちの一つの傾向、すなわち非現象的なものへの傾向を体現している。しかし、レヴィナス思想の展開をその初期から追ってみると、非現象的な傾向がつねに支配的であるわけではない。若きレヴィナスはまさに、非現象的なものの現象的な解明を、フッサールからハイデガーへと発展した現象学に期待していたのであった。つねに「現象学者」を自認した哲学者の努力はむしろ二つの領域を隔離せず、世界のなかで超越を思考すること、現象のなかで非現象的なものを思考することにあったのではないだろうか。その努力の出発点には、世界と超越の統一(unité)があったはずである。この統一の努力はどう考えればよいのだろうか。
この質問に対し、セバー氏は、自身のレヴィナス解釈がどちらかといえば後期思想に重点を置くものであることを認めつつも、世界と超越の「統一」という表現には留保を表明した。たしかに、レヴィナス自身は二つの傾向のどちらも有していたのであるが、非現象と現象を「統一」したものとして考えていたわけではないのではないか、という訳である。報告者はこの指摘を受け、確かに「統一」という表現には問題があるが、それは最初からひび割れた「統一」であったものが、後期へ向けてひび割れが広がっていったのが、レヴィナス思想の展開だったのではないかと応答、この点に関しては合意できたのではないかと思う。
その後、星野太(UTCP)氏から、講演のなかで参照されたリオタールのテクストに関する専門的な質問を皮切りに、質疑応答がフランス語によって行われた。リオタールの愛弟子である司会の小林康夫氏による巧みな媒介により、議論は熱を帯び、フロアからはレヴィナスやリオタールの思想の核心に触れる質問が提起され、時間を超過して討論は幕を閉じた。
報告:馬場智一(CPAG)