梶谷真司「邂逅の記録55:ハワイ大学との共同サマーセミナー(2) 東京編」
8月5日、第2回目となるハワイ大学との共同サマーセミナーが始まった。本郷キャンパスの東洋文化研究所の大会議室に9時30分に全員が集合し、10時からスタート。最初の2週間は東京での研修となる。授業の担当は、月曜日と木曜日の午前が中島先生、午後がエイムズ先生、火曜日と金曜日の午前が石田先生、午後が私、2週間で一人4回の授業である。水曜日は駒場で最初の週、7日に小林先生、2週目の14日に高田先生に講義をしていただいた。
7日の小林先生の授業の後、ウェルカムパーティーを行い、上廣倫理財団の方にも来ていただき、丸山登局長に財団とハワイ大学、UTCPとの関わり、およびこのサマーセミナーについての思い、期待をお話しいただき、こちらとしても直接謝辞を述べるいい機会となった。また学生が直接財団の人と話すことができたのも良かった。自分たちが受けている恩恵を、顔が見える関係のなかできちんと実感することは、彼らが自らの現在と将来に対して自覚をもつ大切なきっかけになっただろう。
さて、個々の授業の詳しい報告は学生に任せるとして、私のほうからは、全体の流れをまとめる形で報告を行う。
エイムズ先生は、儒教(孔子や孟子の思想)を東アジアのかつての思想として扱うのではなく、今日、もしくは将来に世界的なレベルで妥当する普遍的な哲学の一つとして扱う内容であった。古典のテキストの解釈をしつつ、ジェイムス、ミル、ホワイトヘッド、ソシュール、ヴィトゲンシュタインなど、西洋哲学の文脈にも突き合わせて講義をした。
中島先生は、近代における科学と宗教の関係を、まずは中国において、その後日本において、19世紀末~20世紀初頭、当時の思想家たちがどのように考え、この問題と格闘したかを講じた。また魂についての考え方を、ヨーロッパと東アジアにおいて、古代から中世、近代にいたるまで比較してその人間観について論じた。また永平寺と天徳寺に行くに当たり、日本の禅仏教に関する概説を行い、原発に象徴される現代のテクノロジーに対して、仏教はどのようなスタンスを取りうるのかについて、みんなでディスカッションした。
石田先生は、道元の『正法眼蔵』のエッセンスとなる部分、とりわけ時間、現実、自己の存在、物の存在について、原テキストに沿いながらも、西洋哲学の概念で捉えることで、より問題を先鋭化して論じた。またそれを昨年のサマーセミナーで講じた西田幾多郎の思想と突き合わせて説明。難解ではあったが、禅も英語で論じることで、よりごまかしなく、深いところまで考えることができることを再び実感した。
私は、「自然な(natural)」とはどういうことなのかについて、一般的な考察を行った後、「母乳育児は自然か」、「自然死とは何か」、「自然との自然な関わりは可能か」という三つのテーマに分けて、それぞれに論じた。こういう時の「自然」は、存在するものの領域を指すのではなく、物事の様態を指し、しかもある種の規範を表しており、いろんな価値判断の基準となるが、その内実がいったい何なのか、なぜ人間はしばしば「自然であること」に訴えるのかを皆で考え、討論した。
以上が、授業の概要であるが、今年は2年目の開催なので、教員どうしもよく通じあっているし、参加する学生も、大半がすでに友達になっているので、初めての参加者もすぐに打ち解けて、最初から一体感のある中でセミナーを進めることができた。学生たちは、午後の授業終了後、読書会をやったり、神保町の古書店街へ行ったり、また、能をやっている学生の企画で、能と狂言の舞台を鑑賞したり、非常に積極的に交流していた。また週末には、エイムズ夫妻ともども、学生たちで鎌倉と横浜に小旅行をして、充実した時間を過ごしたようだった。
こうして東京での2週間は、非常に親密で落ち着いた雰囲気の中、日米両国の学生とも、スムーズに授業に集中し、またこちらでの滞在を楽しむことができたようだった。もっとも中島先生と私は、セミナー期間中も大学の業務に追われて他の先生の授業に出られないこともあり、その点は残念であった。このあと3週目は、金沢、福井、鳥取への研修旅行となる。
(続く)