【報告】「思考のレトリック」第3回:文景楠「自然を論じること:マクダウェル・アリストテレス・プラグマティズム」
2013年7月23日、東京大学駒場キャンパスで文景楠(UTCP)による講演会「自然を論じること:マクダウェル・アリストテレス・プラグマティズム」が行われた。この発表は、UTCPによる若手中心の研究会〈思考のレトリック〉シリーズの第3回として開催されたものである。同じくUTCPの星野太と西堤優をそれぞれ司会とコメンテーターに迎え、約20人の参加者とともに二時間に渡って議論した。
発表者が問いの出発点としたのは、現代の我々の多くが(程度の差こそあれ)共有している「科学的世界観」というものが、どのような内実をもつものであり、我々の生活の実感をどこまでうまく説明しているのかという点である。科学的世界観の内実がそもそも非常に特定しづらいものであることはいうまでもないが、発表者は、特に因果的閉包性と自然の外部の否定をその重要な特徴として提示し、それが自由や規範といった人間的な領域の存在に疑問を投げかけるものであり、我々の実感とそぐわない面を多く持つということを確認した。
この問題に対する反応として近年非常に重要な位置を占めてきたのが、アメリカの哲学者ジョン・マクダウェルの議論である。彼は、科学と倫理、または因果と規範の関係をどのように調停するかという問題に正面から答えることを試みる。発表者は特に後者の因果と規範に関する彼の議論に注目した。因果的な自然(自然科学の対象としての法則的自然)が人間的な規範の領域である「理由の空間」という、一見完全に異質なものの内部へと取り込まれることがいかにして可能になるのかという問題に対する彼のそこでの応答は、最終的には現代の自然科学的なものとは異なる「第二の自然」という自然観の提案へとつながるものであった。このようなマクダウェルの戦略に対して、まず発表者は彼が「アリストテレス的」と呼んでいるこの因果(第一)と規範(第二)をともに含むものとしての自然観が、実はアリストテレスのピュシス(≒自然)理解とは相容れないものかもしれないという可能性を指摘した。続いて、「第二の自然」という提案は、いわば近代自然科学が提示した自然観の全面的な見直しとして理解することができるが、これが従来の自然科学的自然観、また近代の科学革命以前の神秘的自然観がそれぞれ直面していた問題に対する真正な代案となっているのかが明確でないという点をさらなる疑問として挙げることになった。
最終的に発表者は、マクダウェルのこのような提案が、自然や実在を問うにおいて、伝統的な形而上学・存在論の枠組みに(表立ってではないが)依拠してしまっているのではないかという理解を述べた。この点に関して発表者は、ローティやパトナムといった、このような枠組みを設定することの妥当性をそもそも疑問視する立場からの応答の可能性を模索すべきだとし、これらを含めた様々な立場をすべて考慮した上で、改めてアリストテレスの立ち位置を計る必要があるだろうと述べることで発表を終えた。
発表が終わった後は、西堤によるコメントと参加者からの質疑が続いた。西堤によるコメントは内容の正確な理解を助けるためのものであり、特に発表において十分に解説することのできなかったデイヴィドソンの立場に関して発言がなされた。その他参加者からは、発表者のマクダウェル理解の妥当性を問う質問などを多く頂くことができた。自然とはなにかという問題は、哲学の最も古く中心的な問いの一つであるが、この度の発表は、それのもつ強力さと重要性を改めて認識する機会となったと思う。
(文責:文景楠)