梶谷真司「邂逅の記録53:"哲学プラクティス週間"を終えて」
2013.08.26 "哲学プラクティス週間"を終えて
5月は、海外から哲学プラクティスの専門家が相次いで来日し、数多くの講演やワークショップが開催された。途中まで書いて忙しくなり止まっていたが、ようやく時間が少しできたので、もう8月も終わりに近づき、時期を逸した感もあるが、せっかくなので記録として残しておこうと思う。
さて、この5月の"哲学プラクティス週間"に来たのは、シンガポールのエリート中学高校の哲学教育の主任ケネス・ロー氏、オランダのロッテルダムにあるエラスムス哲学実践研究所のピーター・ハーテロー氏、そしてUTCPで招聘したルー・マリノフ氏である。8日から25日の間に、実に9つのイベントが行われた。そのうち私は、すでに報告したマリノフ氏の講演やワークショップ以外に、5月10日(金)にお茶の水女子大学で日本哲学会の大会の前夜祭として行われた哲学教育ワークショップ、12日(日)に立教大学で行われたワークショップ「哲学プラクティスと子供のための哲学」、18日(土)に神奈川の江の島で行われた「哲学ウォーク」というイベントに参加した。以下、それについての報告と感想である。
ケネス・ロー氏は、10日の日哲の前夜祭では、自身が立ち上げて以来ずっと中心メンバーとして関わっているラッフルズ・インスティトューションでの教育のメソッド、カリキュラム、成果について報告を行った。この学校は、公立ではあるが、運営は独立性が高く、カリキュラムは独自のものを作って実施しているとのこと。内容的には、いわゆるクリティカル・シンキングとディベートの能力を養成するもので、メソッドはきわめて体系的で創意工夫にあふれ、運営も非常に組織だっている印象を受けた。もともと優秀な生徒を集めていることもあり、成果も着実にあげているようだった。もちろんできる生徒を相手にしているからといって、容易だというわけではない。それ以上にロー氏を中心とする教員たちが協力し合ってたえず努力をしているからだろう。そうした長年の蓄積がうかがえる発表だった。彼は、12日のワークショップでは、簡単な模擬授業のようなことを行い、そのメソッドの一端を見せてくれた。それはエリート向けに考えられたものであるが、基本的な部分については、より広く哲学教育一般に生かせるもので、大いに参考になった。
ピーター・ハーテロー氏は、12日のワークショップで、ネオ・ソクラティック・ダイアログ(NSD)を実践して見せてくれた。「本当のことを言うとはどういうことか」というテーマで、最近本当のことを語ったと言える状況について参加者が各自の経験に即して述べる。そのあとそうした状況に共通する「本当のことを語る」ための条件を出して、今度はそれを使って物語を作る、というステップを踏む。こうして参加者たちは、「問い」→「具体例」→「抽象化による本質の解明」→「その応用と具体化」という思考の鍛練のプロセスを体験した。彼のワークショップは、NSDのオーソドックスなやり方とその成果を見せてくれた。
また彼は、その週末18日(土)に神奈川の江の島で「哲学ウォーク」という変わったイベントを開催した。詳しくは7月1日のブログでPDの清水さんが報告しているが、哲学的な言葉を一つ抱えながら仲間と沈黙のうちで歩き、景色を眺め、様々に思索を巡らせ、言葉と思いと、目に映るものを沈黙のうちで紡いでいく。それは、考える、歩く、見る、語る(黙る)という行為を、日常とは異質なコンテクストの内に置き、そうした行為もろとも自分自身を捉えなおす不思議な時間であった。普通に行う対話とはまた違った深くて満たされた哲学的体験である。もともとハーテロー氏は、これを街中で「シティーウォーク」として行っていたらしいが、実際どんなところでも、雑多なありふれた日常空間でも、そこを丸ごと哲学的な空間に変えてしまう、きわめて特異な、それでいてまったくシンプルなプラクティスであり、いろんな形で応用できそうだった。
最後に日本で屈指の実践家、大阪大学の本間直樹さんと、長野県望月高校の綿内真由美さんの話について述べておこう。日哲の前夜祭のワークショップのさい、二人の発表があり、私もそれを聞くことができた。本間さんは、カフェフィロで子供たちと積み重ねてきた対話の実践を通して、考えることの意味、対話の哲学的な質について話した。とりわけ印象的だったのは、哲学対話で最も重要なsafety(安心感)の意義、その場において語る人をその表現においてそのまま肯定し、受け止めようとする彼の粘り強さと優しさである。同様のことは、望月高校の綿内さんにも言える。彼女は倫理の授業で、高校生たちが「問い」を通して考え、話し、聞くよう導いている。望月高校はいわゆる進学校ではないが、そこで行われる対話はまさに哲学的であり、綿内さんの努力と技量、子どもたちの考える力に感銘を受けた。
こうした子供や"素人"の哲学対話は、一般には(特に研究者の間では)何か胡散臭いもののように思われているところがある。中高での哲学教育の重要性については、あまり否定しないだろうが、それはあくまで初歩的な訓練であって、対話の哲学的な質やレベルについてはしばしば懐疑的な見方がされる。しかし哲学対話は、少なくとも哲学研究とは別の基準からすれば、十分すぎるほど哲学的な深さと広さを備えている。
確かに、対話をしている時間の多くは、まとまりがなく、それほど哲学的には思えないかもしれない。しかし阪大の本間さんは、例えば2時間対話をして最後の10分間に哲学的に深い議論ができたら、それで十分だという。そこまでの時間も無駄だったのではなく、その10分のためにあったのだ、というようなことを言っていた。そう、どんな営みも、初めからいたるところでうまくいくわけではない。いわゆる哲学研究でも、とりとめのない思考の流れ、同じところをグルグル回っていたかと思ったら、突飛な考えに飛躍したりするのが、ある時それを整理・凝縮して一貫性のある思考へと鍛え上げる。対話であれ研究であれ、哲学的な深みに達するのは、むしろ稀な瞬間なのだ。そこには種類の差こそあれ、体験としての質は比較できない。どちらも「急いではいけない」のであり、じっくり時間をかけて育てていくべきものであるという点では変わりないのである。
さらに言えば、本間さんが言うように、話している内容の哲学的な質よりも大切なものがある。子供が語ることが哲学的であれば、大人は驚嘆し感動するが、そういうことも結局は大人の勝手な思い入れにすぎない。むしろ「表現がそれ自体として充実している」、そのあり様が周りの人に現れ、共有されること、そこでは何を表現しても――言葉であれ感情であれ態度であれ――許され受け止められること、そのような場が開かれることがもっとも重要なことなのだ。本間さんと綿内さんの発表は、そういうことを教えてくれた。
哲学プラクティス週間を通して、実に多くの刺激を受け、哲学プラクティスの可能性と課題について改めていろいろと考えるいい機会になった。これをどのような形でどの方向へ向けて展開していくか、今後周りの仲間たちと一緒に考え、実現していきたい。