2013年度東京大学-ハワイ大学夏季比較哲学セミナー準備会(2)
2013年8月に開催される予定の東京大学―ハワイ大学共同比較哲学セミナーの二回目の準備会の様子をお届けします。今回は中島隆博先生の論文を読み、東アジアにおける科学と宗教概念の受容の問題を論じました。
6月3日(月)
6月3日(月)の準備会では、中島隆博氏のScience and Religion in China and Japan(未公刊)について杉谷が報告を担当し、全員で英語の討論を行った。気軽な雑談から始まったが、討論は予想以上に盛り上がり、終わってみれば予定を一時間ほど過ぎていた。
第一次大戦は、西洋の近代科学が人類の生存状況を「むき出しの生」に変えていくことをまざまざと示した。論文のテーマは、このような状況の中で、日中の哲学者たちが「科学」を再定位しようとした努力と、その限界である。中国の「科学―玄学論争」(1923)における「科学派」の中心人物であり、モダニストとされる胡適Hu Shiが、結局のところ科学を中国伝統の思想に回収されると理解していたことと、ふつう日本独自の哲学と見られがちな西田幾多郎の「純粋経験」から「場の論理」に至る思索が、一貫して西洋と類似の「主体性」を打ち立てようとする試みであったことが対比的に論じられ、報告者にとっては極めて難解であった。
中国の「科玄論争」へのなじみの薄さなどから、討論は西田哲学の理解が中心となった。例えば、西田が初期から使っている自己Selfと、中後期に頻出する主体(性)subjectivityとは必ずしもイコールではなく、全体と個の関係をめぐる西田の理解が調和から不調和へ変化していく過程に対応するとの指摘があった。また西田をモダニストとして批判的に読む中島氏に対して、西田が一貫して西洋近代の超克overcomingを目指していた点をどう評価するかという疑問も出された。個人的な反省点として、報告者を含め、発言の頻度が一部の人に偏らないよう配慮することと、少し高度な議論になっても困らないだけの英語の語彙力をつけることの必要性を感じた。
6月8日(土)
6月8日(土)の準備会では中島隆博氏のScience and Religion in China and Japan (未公刊)について英語で討論を行った。東家が報告を担当し、司会進行は文が担当した。
中島論文は、20世紀前半、とりわけ第一次世界大戦を経て西洋近代科学に対する疑問が起こった時期において、日中の哲学者たちが「科学と宗教」をどう捉え(直し)たかを論じたものである。福島原発を経験した今、彼らのような先人たちと向き合い「科学と宗教」についていま一度見直してみることが現代社会を生きる我々にとっても重要だというメッセージが中島論文には込められている。
討論中、梁啓超と胡適が共に国家の近代化を推進する中心的人物であるという観点から、近代国民国家の形成へと話が進んだ。西洋のように神と個人の関係を切り離すことが国民国家形成の前提として存在しなかった日中の歴史的背景を確認した上で、近代における両国の科学と宗教、客体と主体の問題等について全員で検討した。他にも、中国において近代化を語るとき「科学」と「民主主義」がセットで語られることが多く、「科学」だけを取り上げることに違和感があるという指摘は報告者にとって新鮮であった。
最後に参加者の「科学と宗教」観についても少し触れた。プラグマティズムを支持する声や宗教の可能性に共感する声、科学の限界を認識し新しい可能性の模索を提案する声など様々であった。
今回の検討論文は東洋哲学を英語で論じたもので、特に西田哲学のいくつかの概念は門外漢の報告者にとって難解であったが、先輩参加者の助けを借りながら自分なりに疑問を解決し、関心の幅を拡げることができた。また、メンバーの中からは「自分で読んだ時は比較的簡単な内容かと思ったが、話し合っているうちに奥が深く、複雑な内容なのだと感じた」という声も上がった。英語で議論する難しさを改めて実感したものの、哲学を専門とする参加者もそうでない参加者も気軽に発言できる雰囲気の中で行われた有意義な準備会であった。
(報告:川村覚文・杉谷幸太 ・東家友子・文景楠)