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【報告】ブリュノ・クレマン氏講演会「哲学者は作家か?」

2013.04.15 小林康夫, 郷原佳以

2013年3月20日、桜が咲き始めた頃、東京大学駒場キャンパスにおいて、パリ第8大学教授ブリュノ・クレマン氏の講演会「哲学者は作家か?」が開催された。この講演は関東学院大学准教授の郷原佳以氏が企画立案し、日本学術振興会の外国人招聘研究者事業(短期)の支援により行われた。全5回講演で、この日はその最終日であった。

パリ第8大学の授業風にと提案された講演会は、司会者の小林康夫先生によるクレマン氏に対するある問いかけから始まった。「哲学者は作家か?」というタイトルに因んで立てられた「クレマン氏にとっての哲学者とは誰か」という問いに、「ポール・リクールとジャック・デリダ」と答えたクレマン氏は、90年代終わりにおけるこの二人との思い出を語ってくれた。この日参加した聴衆は氏と二人の偉大な哲学者との厚い信頼関係を伺うことができたのだった。

さて、本題において、まずクレマン氏は「哲学者は作家か?」という自らが立てた問いに、肯定と否定で答える。哲学者は詩人や小説家のように表現を追求し「書く」という点では作家であるが、虚構を疑い、真理を追求する点では作家ではないのである。

氏は、このように哲学と文学の区別が不確かであることを明らかにするために、「註釈(commentaire)」、「方法の物語(récit de méthode)」、「書簡」、「比喩形象(フィギュール)としてのプロソポペイア(活喩法)」を用いて説明する。まず、あるテクストに「註釈」がなされる場合というのは、その読解が、生きた経験を公にすると決めた者にとって、もう一度立ち戻る必要があると感じさせるほど十分に不可解な出来事を構成した時のみであるという。したがって、註釈とは真理を要求する普遍的「命題」と作家の語りを可能にする「主観的含み込み(implication subjective)」という二重の方向性を携えているのである。それは、フロベールの『ボヴァリー夫人』についての論理的な註釈を可能にするはずであったサルトルの『家の馬鹿息子』、ヴォルテールがパスカルの『パンセ』について書いた註釈、ユゴーのシェイクスピアに関する註釈、ジオノのウェルギリウスに関する註釈、ヴァレリーのデカルトに関する註釈、バルトのミシュレに関する註釈、デリダのアウグスティヌスに関する註釈等に共通してみられる特徴である。

次にクレマン氏は自らの著作においても扱っている「方法の物語」を取り上げ、方法的物語も註釈と同様に、物語と理論、主体と抽象を召還し適合させる点で「主観的含み込み」を持つと述べる。例えばデカルトの『方法序説』はあらゆる分野、時代、学問の理論家たちが、いかなる仕方で方法を発見したかを物語るために書いたテクストであるが、そこで重要なことは、一人称単数の物語が、理論的で思弁的な目標を定めるということであるという。さらに氏はポール・リクールの『時間と物語』をあげ、物語は時間性と自己同一性を共に支えようとする二つのアポリアを持つことを指摘する。方法的物語は、抽象と普遍的なものの筋道と、個人的で主観的な経験の筋道とを同時に掴んでいるということは、本質的なアポリアであるという。それは、後に生じた物事を前提条件としてまかり通すという虚構であり、内心(intimité)において作り出されたものを普遍的なものとして通す虚構である。したがって、方法的虚構は必然であると同時に望まれざるものであり、時宜を得ないと同時に運命的であるということを認めなければならいのだという。

第三に取り上げたのが、「書簡」についてである。デカルトやスピノザ、そしてプラトン等、哲学者の書簡について、理論的で構築的で普遍的に呼びかける書簡と、個人的な書簡とを区別するのは容易ではない。私的な書簡と哲学が関わらないなどということはないのである。氏は「私的である」ということの意義を問う。私的な感情である「慰め」とは、まさしく哲学的な実践であり、例えばデカルトが『感情論』において、自分の友のために、喪失と生の必然性について省察するとき、彼はまさに哲学者なのである。

最後にクレマン氏が哲学と文学の両視点から検討しうるものとして提唱したのが、比喩形象(フィギュール)としての「プロソポペイア(活喩法)」である。哲学のエクリチュールとは修辞学(レトリック)における比喩形象(フィギュール)の問題であり、哲学者たちもまた比喩形象を用いる。ピエール・フォンタニエは、19世紀初めにこの比喩形象を「思考の比喩形象」に分類した。比喩形象とは言語そのものに作用するのではなく、「抽象的に捉えられた思考にのみ作用し、思考が言語に借りる形式には関わらない」である。プロソポペイア(活喩法)とは「ものの見方や想像力のあり方」、あるいは「ある特殊な考え方や感じ方」であるという。それゆえ、一方では、いわゆる精神、思考であり、他方では、想像力、感覚なのだ。プロソポペイアを特徴づけるために、フォンタニエは「想像力による思考の比喩形象」であるとした。

プラトン、ルソー、デカルト、ニーチェ、フーコー、レヴィナス、デリダ、その他多くの人たちは、きわめて傑出したプロソポペイアの遣い手たちであり、それゆえ、プロソポペイアは、哲学等の理論的言説の修辞学という問いのみならず、さらに深く、理論的言説と文学的ないし美学的創造の関係という問いを立てることを可能にする手段の一つなのである。実際にプロソポペイアとはまず直接話法であり、船、法、死人等の語ることができないはずの何者かが語ることをいい、それは虚構の談話でありまた道徳的談話でもあるのだ。結語として氏は、「抽象」あるいは「……から抜き取られた(abstrait de …)」という表現をあげ、他動詞的抽象化の概念を提唱する。それはまさに比喩形象における言語作用によって還元された思考であると思われる。抽象的で理論的でありつつも比喩として表現される限り虚構性を纏うこの言説は、哲学的でありつつも文学の虚構性からは逸脱することができないのである。真理への探求もまたこの虚構性に還元されると言えるだろう。
 
終わりには、司会の小林先生を始め、デカルトやレヴィナス、宗教のエクリチュールに関する多くの質問が参加者から寄せられた。休日であったにもかかわらず多くの聴衆に恵まれ、盛況の内に幕を閉じたのであった。

報告:山岡利矢子

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