【報告】「思考のレトリック」第1回:井出健太郎「抵抗のリリシズム――吉本隆明のロマンティシズム批判」
2013年2月8日、東京大学駒場キャンパスにて、井出健太郎(東京大学大学院博士課程)が「抵抗のリリシズム――吉本隆明のロマンティシズム批判」と題して発表を行った。同発表は、UTCP特任助教の星野太氏の主導によって企画された研究会<思考のレトリック>シリーズの第一回として設定させて頂いたものである。
発表に先立ち、星野氏から研究会の主旨についての説明がなされた。すなわちこの研究会は、人間の思考をかたちにし、人を動かすものとしての言語のあり方を争点とすることで、いわゆる「哲学」や「文学」といった領域を超えた議論の地平を拓こうとする。またそのなかで、近年も引き続き多様な展開を見せている批評理論の動向を参照項とすることも述べられた。
さて井出の発表は、戦後日本の詩人・批評家である吉本隆明(1924-2012)のとりわけ詩作を中心とする初期の仕事を、日本における「ロマン主義」的な精神に対する内在的批判として捉え直すことを目的としたものであった。すなわち、特定の過去に遡ることで現在の危機を追補する心性としてのロマンティシズムへの抵抗を、吉本において探ろうとしたのである。
吉本は50年代半ば、自らの戦争体験を内側から対象化することで、前世代の詩人の戦争責任や「転向」を問いただす作業から出発している。そのクリティークは、60年安保から学生運動の高揚へ至る時代のなかで、既成の知や権力に対する批判を代表するものとして広く認知されたが、その後吉本自身は戦後に定着した高度資本主義に伴走する姿勢を表明した。こうした急速な時代の変容との緊張関係を持ったがゆえに、彼が取り組んだ問いを正面から捉えることの困難は未だ減じてはいないだろう。本発表はこの困難を受け、吉本の批評の出発にある戦争体験(論)の内実を明らかにし、さらに体験の成立を規定した世代的な影響を考察することで、彼の思考をより立体的に理解することを目指した。
発表者はまず、評論『高村光太郎』の分析と同世代の政治学者・橋川文三の回想を照合し、その戦争体験の構造を分析した。すなわち吉本らにとっての戦争は、いかなる省察も対象化しえないような全体の経験であり、その意味で歴史の外から介入する「超越者」(橋川)としての性格を持つとされる。こうした構造は、青年として敗戦を迎えた「戦中派」世代に特異なものであり、特にその全体性は、小林秀雄や保田與重郎らの日本ロマン派らの美的言説からの世代的影響抜きに考えることができない。ここから、「戦後」に批判的に対峙する吉本の課題が、根源としての戦争体験の追究をクリティークへと転換することに存することが確認された。そしてそれには、ロマン派らからの世代的影響の批判的な検討が不可欠であったことが仮設として提示されたのである。
では、吉本はこの課題にどう取り組んだのか。初期の詩集である『固有時との対話』(1952)[『固有時』]と『転位のための十篇』(1953)[『転位』]を貫く「ダイアレクティックな発展」(鮎川信夫)にその手がかりが求められる。つまり、詩において自意識の追求から歴史的現実との対峙へ反転する彼の態度こそが、上述した意味におけるロマンティシズムへの抵抗を示すものとされる。発表者によれば、『固有時』に読まれるのは、絶対的に隔てられた根源へ駆り立てられる一人称が、現実の「風景」とそれを映す自らに絶えず懐疑を向けていく、再帰的な思考の軌跡であるという。いわば「抽象」と「回想」のモーメントがテクストを構成している。しかし顧みると、これらは小林秀雄が自らの批評の軸としたものではなかったか。実際、戦前のマルクス主義台頭のなかで自己への懐疑を批評の方法として掲げ、続く総力戦の切迫とともに「思い出」(小林)の確かさに没入し、それを中断してみせたのは小林であった。とすれば、吉本は詩作の場において、「抽象」と「回想」の間に生じる小林的な困難を丸ごと引き受けたとも考えられる。これを踏まえて、『固有時』は懐疑の徹底によって歴史的現実の方へ反転していく過程に他ならず、それを経ることで吉本は(小林同様に)上の困難を解消するのではなく、クリティークの根拠としえたことが論じられた。一方『転位』には、この批判=危機的立場の具体化が読み込まれる。特に発表では、テクストに頻出する二人称に対する対決的な言語行為が、文字通りラディカルな抵抗の可能性を伝達する孤独な主体の身振りを集約したものである点が強調されたのである。
こうして吉本のクリティークの生成を捉えなおした後、それが戦後日本において有しただろう意義および困難をいくつか示唆して、本発表は締めくくられた。ここでは、急速に台頭した資本主義の時間性との関係について簡潔にふれておこう。詩の読解のなかで注目された「時制」の問題から解るように、過去(戦争にいたる歴史の過程)を現在における抵抗に転換していく要求が、吉本を批判=危機へと駆り立てている(そもそも「批評」がそうした性格を持つのかもしれないが)。こうした「終末論的」な展望にはしかし、絶えず目的=終局を先送りする資本主義の時間と親和的な側面があるのは否めない。実際、60年安保に向かう時代のなかで彼の批評が持ちえたインパクトは、明らかに高度経済成長の展開に支えられていたし、安保闘争後は彼もそれを認めていた。そのうえで発表では、抵抗の「感性的な基底」(吉本)を奪う資本主義に伴走しながらなお批評の根拠を掘り下げようとする吉本が、出発に際して批判したはずのロマンティシズムに自ら訴えた可能性が指摘された。しかし逆に言えば、それを完全に批判することの困難が示されているとも言えるのであって、「近代」を考える際、ロマンティシズムの精神が根強く残る課題であり続けていることを確認して発表自体は終えられた。
その後、コーディネーターの星野氏をはじめ、来場された方々から貴重な質問・意見を頂くことができた。それらは個々の用語から議論の枠組みに関わるものまで多岐にわたるが、以下の二点は特に示唆的なものであった。第一に、ロマンティシズムの精神にとって「風景」とは何か。これは、『固有時』で還元されたという「風景」の内実が明確に示されなかったことに対する問いであった。第二に、詩篇の読解において着目された「人称」と、『共同幻想論』に集約される共同体論との関係。詩における一人称や二人称が、「日本」の共同性をめぐる想像力をどのように準備していたのかが問われたのである。その場で明確な応答することができなかったが、今後の課題として追究していきたい。
報告:井出健太郎(東京大学大学院博士課程)