パリ出張報告(2)国際哲学コレージュ・セミネール「哲学の(非)理性的建築としての大学」
2013年3月に、セミネール「哲学の(非)理性的建築としての大学(L’université comme architecture (ir)rationnel de la philosophie)」がパリ国際哲学コレージュで開催された。
本セミネールは、国際哲学コレージュ・プログラム・ディレクターの西山雄二氏(首都大学東京)が2011年から開催しているプログラムの3年目に当たるものであり、本年は3月18日(月)・21日(木)の2日間にわたって開催された。
3月18日には、西山氏が「哲学への権利と制度への愛」という発表を、清水雄大氏(リール第3大学)がその発表に対するコメントを行なった。西山氏の発表は、デリダが1983年に発表した「日本人の友への手紙」を参照しつつ、そこでデリダが脱構築を消去法的に定義していることを確認することから始められた。曰く、脱構築は(しばしばそう言及されるような)「分析」でも「方法」でも「批判」でも「行為」でもない。では、このような消去法的な列挙によってのみ名指される脱構築とは、いったい何であるのか。発表のなかで終始強調されていたのは、デリダのテクストを貫く脱構築という語が、1970年代のGREPH(哲学教育研究グループ)をはじめとする制度的実践と不可分だという事実である。デリダは、まさに先の「日本人の友への手紙」が発表された同年に、フランソワ・シャトレらとともに国際哲学コレージュを創設した。デリダの哲学は、GREPHでの活動やコレージュの創設をはじめとする研究教育制度への実践的な働きかけと密接に結びついている。そして、「哲学への権利」の手前に存在する哲学の「責任」は、哲学の自己同一性を疑い、それを制度の外部へと開いていく「領域交差(インターセクション)」を必要とする。西山氏によれば、デリダによる国際哲学コレージュの創設は、哲学の特権を問いに付し、同時にその権利を開く、脱構築の実践のための制度だったというのである。
その後、清水氏によるコメントを口火にフロアを交えて行なわれたディスカッションでは、各国の研究教育制度において哲学が占める地位の問題(たとえば日本とフランスにおいて「哲学」が占める重要性の相違)や、デリダにおける哲学の特権性をめぐる問いなどが提起された。
3月21日には、星野太(UTCP)が「非理性的なものを飼い慣らす――18世紀から20世紀における崇高の命運(Domestication de l’irrationnel: le destin du sublime du dix-huitième au vingtième siècle)」と題する発表を行なった。本発表は、セミネールのタイトルに含まれる「理性的」「非理性的」という両義的な形容詞に着目し、それを美学における「崇高」の概念と結びつけながら、近代における理性と非理性の関係を問うものであった。発表のタイトルとして用いた「非理性的なものの飼い慣らし」という表現は、理性がみずからの外部にあるものを「非理性」ないしそれに準ずるカテゴリーとして名指すことによって、逆説的にそれを回収してしまうというプロセスを含意している。発表では、まずボワロー、バーク、カントにおける近代の「崇高」概念の変遷をたどりつつ、それがいわば「非理性的なもの」を象徴する効果/感情として規定されていく過程を提示した。さらに、理性にとって「怪物的」(カント)な存在であるはずの崇高というカテゴリーが、逆説的にも理性による基礎づけを支える「要石」のような機能を担っていることを指摘し、それがリオタールをはじめとする20世紀後半の多くの崇高論にもしばしば共通するものであることを指摘した。
この回のセミネールでは、発表の中で何度も西山氏との質問と応答を繰り返し、議論のポイントをそのつど確認しながら進められた。そのおかげもあってか、その後の質疑応答の時間においては、(発表においては割愛せざるをえなかった)ギリシア・ローマにおける「崇高」の語源的解釈、宗教的な議論との関係、さらには20世紀後半における美術批評との関連など、結果的にセミネールらしくさまざまな方向へと議論を拡げることができた。
以上のように、2013年3月の本セミネールでは、西山氏がデリダにおける「制度」の問題を扱い、星野がセミネールの主題に含まれる「(非)理性」という部分に焦点を合わせた発表を行なった。冒頭で述べたように、本セミネールは2011年から2016年までつづくプログラムの一貫をなしている。過去のセミネールの内容については西山氏のウェブサイトの報告を参照されたい。
報告:星野 太(UTCP)