梶谷真司「邂逅の記録34: P4E(Philosophy for Everyone)への道(5)」
《問わないこと、考えないこと》
考えることにとって問うことは、決定的な意味をもっている。考えるためには問わねばならず、適切に明確に考えるためには、適切に明確に問わねばならない。どのような問いを立てるかが、どのように考えるかを決める。とりとめもないことしか考えられないのは、問いにとりとめがないからである。考えが抽象的なところだけで動いているのは、問いが抽象的なままだからである。そして、問いがないということは、要するに、考えていないということなのだ。
ところが、大学で授業をしていて気になるのは、学生たちが質問をしないことである。T大学にいたころ、講義やゼミをしていても、質問はほとんど出なかった。当初、それはあまり気にしていなかった。私の話を聞いて、よく分かったということだろう(学生にはよく分からない授業が多い中、分かるというだけで十分いい授業じゃないか!)と思っていた。しかし講義が終わった後に来たある学生の一言で、私は自分の考えがおめでたい自己満足にすぎないことを痛感した。その学生は次のように言ったのである──「先生、授業中に質問ってしていいんですか?」
私は授業中、切りのいいところで「ここまではいいですか? 何か質問はありませんか?」と聞いていた。にもかかわらず、この学生は、質問していいのかどうか自信がもてなかったのである。逆に言えば、この子は、授業中に質問するものではないと思っていたのだろう。私は少なからずショックだった。この学生がどういう経験をしてきたのかは分からないが、一般的に言って、いわゆる「学力」があまり高くない子は、授業中に質問しても、先生から「そんなことも分からないのか」「話を聞いてなかったのか」と怒られかねない。確かに理解の遅い生徒の質問は、授業の進行の妨げになることも多いだろう。だから一概に学校の先生を責める気はない。しかし子供たちは、そうした経験を自分でしたり、他の人がそういう扱いを受けるのを目にして、やがて問うことを封じ込められ禁じられていく。そして自ら問わなくなる。
では東大に来ているような優秀な学生はどうなのか。よく質問するのではないかと思うかもしれない。確かにT大学よりは質問する学生はいる。質問のレベルも高い(成績評価やテストに関することも多いけど)。だがやはり少ない。「何かありませんか」と念を押して聞いても、「大丈夫です」という答えが戻ってくる。だがこの、ずっと長い間、私自身気にとめていなかった言葉に、急に強烈な違和感を覚えるようになった。
いったい何が「大丈夫」なのか。彼らは質問がない状態をいいと思っている。それもそのはず。大学入試を最終目標とする中学高校においては、テストで「正解」を出すことに最高の価値が置かれる。そのためには、習ったことをすべて吸収し、分からないこと、したがって質問することが何もない状態が理想である。東大生というのは、その理念を最もよく実現した人たちなのだ。だから「優等生」である彼らは、疑問があろうがなかろうが、「質問がないのが良い」という規範に従い、まさしく質問はせずに「大丈夫です」と言う。そう、問題の根っこは同じなのだ。成績の良し悪しにかかわらず、質問・疑問がないようにする──これが学校教育の目標なのである。
このような態度は大学に入っても続く。もちろん大学では、「もっと疑問をもつように」と言われ、質問するよう推奨される。しかし簡単には変わらない。特に東大生は、「エライね」「スゴイね」と褒められることに慣れている、あるいはそれを目指そうとする。それが彼らのアイデンティティなのだ。だからレベルの高い質問をしなければならないというプレッシャーが常にある。マヌケな質問をするくらいなら黙っているほうがいい。そして「大丈夫です」と言う。実際、東大で低レベルの質問をすれば、教員から嘲笑されるか、呆れられるかもしれない。それに対してT大学の学生には、「いい質問をしよう」というプレッシャーは少ない。でも、レベルの低い質問をすれば、やはりバカにされる。結局、日本の大学では、成績が良かろうが悪かろうが、「大丈夫です」という答えが正解であり、安全なのだ。根っこは同じなのである。
しかし、本当は、「大丈夫」なんかでは全然ない。問いがないというのは、考えていないということだ。ただ外から受け取って、自分の中で消化しているか、消化不良を起こしているか、そのいずれかだ。それは、要するに、受験勉強の延長でしかない。問うとはどういうことか、まずはそれを学ばなければならない。そしてさしあたりは、低レベルのマヌケな質問から始めればよいのだ。そうやって、自分を問うことに慣らしていく。そこからしか、思考は育っていかないのである。
(続く)