【報告】北京大学哲学系百周年記念大会
10月27日、28日、29日の三日間、晩秋の北京では、北京大学哲学系百周年記念式典が催された。UTCPからも梶谷真司とわたしが式典と記念シンポジウムに参加した。
記念イベントはキャンパスの其処此処で行われたが、わたしたちが参加したシンポジウムは、世界各国の大学から哲学研究者たちが集まり、今日的社会状況における哲学教育の経験と課題を交流するというものだった(配付資料を数えると、中国以外に14カ国23大学から参加者があったようだ)。梶谷さんとわたしもそれぞれ発表を行った。
東アジアで最初の共和国家が産声を上げたのはちょうど百年前のことだった。1911年10月の武昌起義をきっかけに、中国国内で各省が清朝からの独立を宣言、清朝打倒革命をリードしてきた同盟会は、その領袖孫文(SUN Yat-sen、1866-1925)を臨時大総統に推挙し、1912年1月1日、中華民国臨時政府が南京に誕生した。
その後この生まれたばかりの共和体制がたどった顛末はさておくが、清朝政権の下で1898年に設立された京師大学堂は、民国の成立を機に「北京大学」に改称、トマス・ハックスリーの『進化と倫理』やジョン・スチュアート・ミル『自由論』などの翻訳で知られる思想家厳復(YAN Fu、1854-1921)を学長に迎え、新体制をスタートする。「哲学門」が設けられたのもこのときであった(「門」は学科に相当)。手元の資料(李四龍編著『有哲学門以来:北京大学哲学系1912-2012』、三聯書店、2012年)に基づくと、京師大学堂時代に立てられていた8の「科」のうち、「経学科」と「文学科」が合併して「文科」となり、厳復が自ら文科長を兼任する。二千年の王朝史を通じて中国の知的システムの根幹であり続けた経学は、ついに国家の最高学府から消失したのである。そして、経学と入れ替わるようにして文科の下に「哲学門」が開設される(以上は李四龍同著から)。それは、中国における人文的知の近代化を象徴する事件であった。
以来、北京大学哲学系は中国における哲学研究の最大の拠点となる。ジョン・デューイに親しく学んだプラグマティストの胡適(HU Shih、1891-1962)が中国的言文一致運動とも言える白話文運動(文学革命)の旗手として、1910年代末から1920年代の学術・文化界に多大な影響を与えたことはよく知られている。若き毛沢東(1893-1976)を見出して彼に北京大学図書館職員の仕事を与えた楊昌済(1871-1920)、儒家思想と仏教の融合を目指した熊十力(XIONG Shili、1885-1968)や梁漱溟(LIANG Shuming、1893-1988)、論理学の中国語ディスコースへの吸収を進めた金岳霖(JIN Yuelin、1895-1984)、理学(日本では朱子学として知られている宋代に確立した思想流派)の近代化を試みた馮友蘭(FENG YoulanまたはFUNG Yu-lan、1895-1990)、美学の朱光潜(ZHU Guangqian、1897-1986)、カントと対峙しながら現代新儒学を確立した牟宗三(MOU Zongsan、1909-1995)、ウィーン学団の分析哲学や論理実証主義の紹介に努めた洪謙(HONG Qian、1909-1992)、ハイデガー『存在と時間』の訳者熊偉(XIONG Wei、1911-1994)、文化大革命に異議を唱え、初期マルクスの再評価によって文革後思想解放の立役者となった王若水(WANG Ruoshui、1926-2001)、1980年代に新啓蒙運動のオピニオン・リーダーとして活躍した李沢厚(LI Zehou、1930-)などなど、北京大学で教鞭を執ったり学んだりした多数の人々のなかには、中国の近現代思想史を形成してきた中心的な哲学者・思想家たちの名前がまさにきら星のごとく燦然と輝く。
設立百年を迎えた北京大学哲学系は、哲学の使命を張載(横渠、1020-1077)の次のような名言に託した。
「為天地立心,為生民安命;為往聖繼絕學,為天下開太平。」
(天地の為に心を立て、生民の為に命を安ず。往聖の為に絶学を継ぎ、天下の為に太平を開く。)
1980年代以降の哲学系を支えてきた老教授から何度も聞かされてきたこのことばは、北京大学哲学系に集う研究者の矜持を支え続けているのだろう。現在の主任王博氏(WANG Bo、1967-)は、哲学系に流れるこの経世的伝統を引き受けつつ、新たな百年を見据えて「周雖舊邦,其命維新」という『詩経』の一節を引く。明治維新の名の由来ともなったこのことばは、革命によって新しく生まれ変わった国(周王朝を指す)は、古くからの存在であるにもかかわらず、新しい命が吹き込まれているというほどの意味だ。胡適は「全面西洋化」と「国故整理」をかつて提唱した。知的システムの徹底的な近代化と固有の伝統知に対する整理保存こそが中国の人文学が近代に伍していくための方法であるということだ。百年を経て、「旧邦新命」を説く王博氏の意図を一言で言えば、中国の哲学を世界化するということになるだろう。「中国の哲学」、それは、一般的にイメージされる伝統的な中国哲学を含みながら、それだけではない。ましてや、東西文明二元論のフレームワークの中で中国哲学の優位性を自己言及的に論証しようとするものとは大きく異なるはずである。まさに、上に挙げた人々の知性が総体として体現しているように、それは「中国における哲学」であるべきなのである。そして、それが広く世界を舞台とする知の運動へと昇華していくこと。世界各国の大学哲学科からのゲストを招待した今回の式典では、そこへ向かう決意と自負を示す新しい北京大学哲学系のすがたが参加者の一人一人にまざまざと印象づけられることになった。
「中国の哲学の世界化」という野心的なアジェンダにさまざまなチャレンジが待っていることもまた想像に難くはない。だが、忘れてはいけないのは、北京大学が近代中国革命の中で果たしてきた役割のことだ。1919年の五四運動のさなかに中国を訪問したデューイは、デモに加わる学生たちのすがたに驚嘆する。そのようすに言及した竹内好の言葉を借りよう。
「その五・四運動で、学生がデモ行進に際して、みんなポケットに洗面道具を持っていたということに、デューイは非常に感動している。逮捕を覚悟しているということです。これこそ中国における新しい精神、新しい近代の芽生えであるというふうに評価しております。当時の中国というのは、救いようがない、混乱状態で、そのまま解体してしまうというふうに国際的に見られていた。その中において、学生が挺身して、自国の運命を担って立ち上がった。この青年の元気、そういうものを通して彼デューイは、中国文明の見かけの混乱の底に流れている本質を洞察した。」(竹内好「方法としてのアジア」)
「思想自由、兼容併包」の標語を掲げて、イデオロギーや信条の違いにこだわらない自由且つ幅広い人材の招聘と育成に努めた当時の学長蔡元培(1868-1940)の精神は哲学系にも綿々と受け継がれている。式辞の中で王博氏が次のように述べた瞬間に会場から自然に巻き起こった拍手の渦はそれを物語っている。
「本質的に、哲学とは自由なる学問です。独立した精神と自由なる思想が豊かになればこそ、新たな創造が生まれ、未来が豊かになるのです。」
ソ連型社会主義建設から文化大革命へ至る新中国の悲劇を踏まえた文脈で出てきたその発言に対するこうした反応は、中国知識界に脈打つ良質な伝統の所在を垣間見させてくれるものだった。
もちろん、今回の催しが、中華人民共和国という国家の威信とプライドを背負ったものであることは容易に見て取れる。日本の文科省に相当する教育部から副部長がやってきて哲学が国家にとって欠かせない基礎学問であることを強調するというのも、日本ではあまり想像しにくい光景だ。「世界化」が強大化する国力を背景にして推進されるなら、人文学的知はそれによって豊かになるのだろうか。数日前に白永瑞氏(韓国延世大学)が投げかけた「制度」の「(不)可能性」の問いそのものを呑み込みかねないほどの巨大な潜勢力が、あるいはいま形成されているということなのかも知れない。だとすれば、それにどうわたしたちは向き合えばいいのだろうか。
すでに賽は投げられ、渦は旋回している。ただ座して眺めることに自足してしまうわけにはいかないだろう。そして、彼らの呼びかけに対して、哲学的思考の深みにおいて応答すること、そこにわたしたちの知の価値は問われてくるに違いない。
(報告:石井剛)